2010年1月16日土曜日

概念

概念が私を創り、概念に沿って生きている。私を創っている概念は神的なものとサタン的なものが混合されて、混合とは聞こえはいいが実は妥協されて、妥協された概念で私は存在し、妥協された概念に沿って生きている。従って私という存在も妥協の産物であり、五感で受け取るものを始め思考や感情内容も、妥協的に受け取り妥協的に思考し妥協的に感情を発する。この妥協的産物である私を妥協的産物である私が妥協的だと判断することは出来ない。私という産物を越えた概念の声として私を妥協的だと認識している。私は堕落した存在だと教えられたからそうなのではなく、堕落した存在だと実感している今一人の自分を既に持っているから堕落した存在だと言い切ることができ、神様の本質から差し出された概念の泉としての御父様を絶対視し、慕い侍っている。この今一人の自分の存在は妥協的産物の私に比べて実に存在感が薄く、圧倒的な支配力を妥協的私は持っている為、堕落的生活、堕落的感覚、堕落的思考や堕落的感情も良しとし、それで何の不自然さも感じなかったりする。堕落人間としては、悩む姿の中にこそ今一人の自分が芽を出す時だ。悩みを必死で抜け出そうと試みるが、抜け出した平安が今一人の自分の願いなのではなく、悩む過程で本質を取り戻し今一人の自分の存在感をより大きなものとすることが大切なのだ。悩みは尽きない。煩わしいことの多さに辟易する。しかし悩めばこそ神様が働いていると言え、煩わしいことの多さに神とサタンの決戦の場が私なのだと思えなければならない。人間は苦労すればこその人間なのだ。苦労する為にこの世に生まれることを選んだとも言える。この苦労が、この遣り切れない痛みが、霊界では逆説的に何倍にもなって喜びに変わる。

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