2010年1月7日木曜日

拾われた者としての姿勢

私達は御父様の本質を何一つ理解してはいない。いや、私が理解していないだけだろうか。そうあることを祈る。祝福家庭の多くが、兄弟の多くが、絶対信仰絶対服従絶対愛の基準と一つになり、御父様を内的霊的に支えきれるまでになっていて欲しい。青春を捧げて献身したように勝手に思っているけれど、持てる何物も無かったから献身したのであり、献身することで真に為に生きようと決意したと言うよりは、外的なことであれ内的なことであれ何かが手に入ると言う思いがあったから献身したのだ。少なくとも私はそうだ。救いという宗教的概念があやふやなまま、何か美味しいもの、気持ちに快いものを受け取ることらしいと勝手に思い込んで出発したとしても、蕩減路程の何処かで修正され成約聖徒に相応しい内的器を用意できたなら、御父様に向かう心情は別様になっていただろう。救いの本当の意味はクリスチャンの方が何倍も解っている。イエス様についてもそうであり再臨主についても勿論そうだ。復帰された牧師へ向けられる御父様の目の輝きは明らかに違っている。私達は彼らを御父様の元に連れて来てこそ、救いの意味も再臨主の本来の価値もわからない我々が御父母様を慕い侍ることの意味がある。取って着けた様な信仰で俄か聖徒を装っても、そう言う我々が二千年待ち続けた彼らに取って変わり超えることは到底出来ない話だ。その自覚があり、せめて謙虚さだけは負けないと我武者羅に歩んでこそ御父様の心を僅かでも動かすことができた筈が、今の多くの食口には謙虚さも感謝も薄らいでいる。御父様の嘆きは天を突く。空しい空っぽの賛辞だけを空間に舞わせたところで御父様の我々に対する嘆きは癒されない。何も無い我々は血と汗と涙を流すことだけが御父様を慰める方法なのだ。血と汗と涙を流すことで二千年待ち続けた彼らを説得できる。み言み言と向かわせ目を通すにも、み言の中にある本質を捉えるほどの内的霊的素養が無い者には、豚に真珠と言う言葉の意味を知るところから始めなければならない。そうではなくて我々に取ってのみ言の力とは、血と汗と涙を流したい想いをみ言の中に見つけ続けることだ。御父様の為なら何でもできる自分になることの方が、今となっては高次元のみ言に頭を傾げることよりも重要なのだ。

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