2010年1月20日水曜日

今日の想い 133

誰もが自分を変えたいと思っている。食口であれば特にそうだろう。しかし、と同時に自分は変わらないとも思っている。今まで何度変わろうと努力してきたことか。そして結局無理だと何度サジを投げてきたことか。決意をし、紙に書き出し、唱和し、そしてその内唱和すること自体が目標になり、決意は次第に薄れていく。自分への無力感のみが累々と内面に積み重ねられる。しかし自分を掘り下げてみると、本当に自分は変わりたいと思っているのか。表面的にはさも当たり前のようにそう思っているだけで、心魂の奥の頑なな自分の正体は変わりたい気分の蓑を被ってそれらしく装いながらも、本音として変わりたくないし、変わった自分が自分でなくなるのが恐いのだ。今までの自分が死ぬのが恐いのだ。今の自分に安住していたいのだ。心魂の奥の頑なな自分は本当の自分ではない。み言を理解していると認識する者はこの事実に気付くことが信仰路程の初期に於いて要求されるだろう。堕落の血統を引き摺っている心魂の主人は偽りの自分なのだと、実感として気付き始めて、そして自分を変えることの意味も変わる意志も見えてくる。自分の中に二人の主人がいることを明確に把握してからが本来の信仰路程の出発なのだ。自分が生まれてこの方、いや血統を代々遡って支配してきた今までの自分を見知らぬ別様の存在に思え、御父様にまみえ聖酒を頂き祝福を受けて植付けられた新しい自分を取り戻された本来の自分だと感じ、先の自分は次第に細り、新しい自分は益々その存在感を増してくる。ある面に於ける宗教的素養の薄かった私は、与えられた責任分担をこれがみ旨にどう関与するのか頭を振りながら否定的に歩み、随分遠回りしながら今まで来たけれど、み言や摂理に対する論理的理解を超えて直に御父様の御心情に相対できる先輩や同僚の食口も少なからず居て、私は彼らに頭は上がらない。

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