2010年1月6日水曜日

意識という触覚

霊的な感性があると言う時、それは意識という魂の触覚を対象に伸ばしながら、対象の思考魂、感情魂、意志魂の状態を自らの魂に映して把握する能力を指す。私達の眼に映ずるもの、耳に届くもの、触れて受け取るもの、実は全て霊的なものであり、単に見たり聞いたりする意味は霊的事物の表面のみを把握していると言うことだ。表面のみを把握して表皮の内にあるものを見ようとしない、或いは表皮の内側は空っぽであるとの認識を唯物的認識と言うことができる。空っぽであるとは原子、素粒子と言う最少単位の物としか捉えられないと言うことだ。最小単位の内的なもの、性相的なものこそ本質であり、それを見届けることが重要であるにも関わらず、そこを問うことを御法度にしたのが唯物主義と言える。霊的なものは生きている世界からは遠くにあるものという認識を、み言を受け入れた兄弟でさえ持っており、生活の中に霊的な事柄は深く関わっているにも拘わらず、この世的即ちサタン的認識に毒されてそれを見ようとはしない。外的表面的生活を主軸にしている限り、生きている間は霊的な事柄はみ言の中だけであり、み言が生活化されないように霊的本質的歩みを見届けられずに生きている。私は霊界を信じますと言うけれど、信じるも信じないも一日二十四時間霊に関わりながら生きている。その認識がある者に取って、信じるという言葉は不可解に思える。呼吸だって霊を吸い、霊を吐いているのであるし、勿論食物だって霊を肉としていると言うこともできるし、身体と言う次元の違う霊として創造されていると言うこともできる。清平の摂理以降、肉体の中に押し込められ肉の中に深く沈滞し切っていた意識が解放されて来ており、それは益々強くなっている。意識が物質次元から解き放たれ、霊的次元に触覚が届くようになっている。霊的光はその強度を増し加え、解放された意識は霊的光、真の愛の届くところであれば幾らでも意識の触覚を伸ばしていける。意識がもっと解放されれば御父様の数理の意味も理解できるようになる。

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