2010年1月30日土曜日

今日の想い 137

外的な人間に取って年は取る。年を取るごとに老いていく。若さへの憧れが虚しいものだと知りながら、それでも若くありたいと思う。老いて行くのは人間だけではない。生きとし生けるもの全ては老いて行く。植物も老い、動物も老い、地球だって老いて行く。そして死んで行く。生命を養うことは宇宙に取って多大な消費だ。この肉体を産まれさせ発育させ維持させる為には、莫大なエネルギーが必要とされる。食糧や水や酸素、あらゆる消費を毎日繰り返しながら生命を維持している。生命が棲むこの外的世界自体に途方も無いエネルギーが投入されている。エコの観点に立つなら人間存在そのものが環境破壊なのだ。人生という生命過程にあらゆる環境消費を許され、その意味は下級生命の死の犠牲であり、人間と言う存在は下級生命の死の犠牲の上に生き永らえている。累々と積み重なる死の犠牲を踏み台にしながらついには人間も死んでいく。為に生きる、犠牲的歩みこそが本然の在り様なら、低次の存在はより高次の存在の為に犠牲になることこそ本望だろう。植物は人間の為の酸素を供給し食糧となる。植物に取ってはより高次の存在である人間の為に存在できることこそが喜びなのだ。断食すれば口に入るものに対する感謝の思いが湧いてくる。断食明けの一口一口入っていく食物がどれほど愛おしいことか。日頃忘れているけれど、口に入る食物にしろ呼吸する空気にしろ自分という存在を存在たらしめる犠牲への感謝を忘れてはならない。そしてその犠牲は私がより公の為に高次の為に犠牲となることで報われる。食事をする毎に、呼吸一つ一つに、感謝と合わせてより高い次元への犠牲を払う決意と覚悟を供えることで、有機的循環の輪の中に入ることが許される。年を取り老いることへの寂しく悲しい感情は人間の傲慢さから来るものであり、為に生き、犠牲を供えた今日一日であり昨日であり、また過去ひと月であり一年であったのかをいつも問いながら、消費し受けてきた事柄に対して過去に投入した内容があまりにも足りないことに対する謙虚さこそ供えるべきであろう。

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