2010年1月23日土曜日

地動説、天動説

この宇宙が宇宙霧からできた、宇宙の塵をかき混ぜてできたという説明に何の違和感も感じないところに、現代人は唯物主義と言う魔術にかけられてしまっていることがわかる。数万年の人類歴史の中でその宇宙観がたった数百年続いただけなのに、神々によって創られた宇宙を当たり前のように受け取る太古の人間達の宇宙観を、知性の低い幼稚な文明故のお笑いだと言い捨てる傲慢さも備えている。そんな唯物的説明で宇宙が説明できるなら、そしてその説明で人間が納得するなら、人間の精神性の問題をどう捉えるのか。精神性を完全に否定する立場に立つなら、唯物的説明で納得できるかも知れないがそれは有り得ない。精神性を有しない人間など有り得ないからだ。数百年に渡って唯物的世界観、原子素粒子的世界観が広がっていった為、その世界観に毒された人間は精神が愚鈍化されている。神を無視した自然考察が、本来人間に備わっていた感性を意味の無いものとしてきた。その結果が、他人の迷惑や痛みなどどうでもいい。恥と言う言葉は消え去り奇異な表現や行動にでる。自分に危害が及ばなければ目の前で人が殺されようとしても手を出すことは無いだろう。他の気持ちを察する感性が欠如し自然や万物に対する感性も情けないほど貧弱だ。私達は全ての物事の背後に内的霊的なものの流れているのを感じ取ることができる感性を呼び戻さなければならない。昨日という一日を司る霊と今日という一日を司る霊の違いを把握し、時の流れに関与する霊的正体を見据え、身体に備わったこの二つの目から飛び込んでくる外界の真の意味を知り、広がる自然の中に溶け込むことができ力を得ることができ、宇宙の中に今尚続く内的霊的創造、愛の創造を驚嘆の思いで見届け、自分自身もその創造過程の一端を担って組み込まれている事実を知り、自分が小宇宙として神の分霊を受けた心霊存在としてこの世を歩む時、人生様相は一変する。今までの自分は死んだ存在であり、目覚めた今こそ生きた存在だと実感する。コペルニクスの地動説を信じて疑わないのはそうだとしても、我々がその説を受け取るにはひとつの大きな視点が抜けている。太陽の上に立てばこその地動説であり各惑星の楕円軌道だと言うことだ。自分に取って、地球に立っていながら太陽の上に立つことの意味を探さない限り、地動説は只の知識として受け取る以上のものを見出すことは無い。内的霊的見地、精神的見地に立てば、天動説的感覚を必要とする。今日を終えれば明日が必ず来ると言うような、地球が軌道上を回っているから冬の次は春が来て四季が繰り返されるような、そんな無機質的システマチックな概念で地球を捉え宇宙を捉える限り、本質である霊的なものは隠されたままだ。

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