2010年1月8日金曜日

今日の想い 130

イエス様が洗礼ヨハネから洗礼を受けてイエス様の公生涯が始まる。それまでは人間イエスであったかも知れないが、僅か三年のその公生涯の期間はキリストイエスとして歩まれた。僅か三年のこの歩みが歴史的宇宙的出来事として宇宙と人類への福音をもたらした。人類歴史に於いて、全ての肉体を持った人間は堕落したアダムを血統にもつ、罪という欠陥を植付けられた魂存在だ。しかしキリストイエスは同じ堕落人間的様相の肉体をまとっておられるとしても、堕落したアダムとは関係のない、天に見事に隠されていたアダムの原型を、見事にイエス様という肉体に公生涯の始まる洗礼を受けられたその時、植付けられた。御霊がはとの様にイエス様の上に下ったという表現がそれを表している。御父様の自叙伝を読み進めていけば、人間文鮮明の多難な人生に誰もが共鳴しながら、統一食口でなくとも地上的この世的な道理で生きるサタン主管圏内の全ての人々であっても頭を下げざるを得ない。それがサタンも屈服せざるを得ない立場に立たれたことによる地上的実りだ。御父様がこの自叙伝を誰もが手にすることを願われるのは、当然自分を誇りたいからではなく、人間文鮮明を曝け出されたこの自叙伝を呼び水にしながら65億の人類に祝福を与え天国に連れて行きたいという想いからなのだ。その御心情を痛いほどに汲み取れる私達でなければ御父母様の名を語るのさえ恥かしいだろう。食口であれば書かれている内容の多くを摂理として共有しながら御父様と共に歩んできた。一つ一つの摂理に対して精誠を尽くしてきたと言える立場であれば御父様の御心情が直に伝わり一行一行を涙なしで読み進めることはできない。しかしながら私達が悟らなければならないことは別にある。人間文鮮明を超えた、再臨のメシア文鮮明を、神様と一体となられた御父母様を、65億人類の魂に注ぎ込む為には御父母様の代身としての我々はどうなるべきなのかどうすべきなのか。祝福の天宙的価値を我々自身も実感しながら証しを立てることができ、我も我もと祝福を望む者が列を成すようにする為には次元を超えるほどの霊的変革を成し遂げなければならないはずだ。権能を与えると言われたその言葉に、我々の使命的未来がある。霊界は益々激しく地上に流れ下る。善霊も悪霊もこぞって入る事ができる地上存在を探し回る。キリストに仕える霊を統一食口は受け取る存在にならなければならない。

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