2010年1月7日木曜日
真の愛とは
真の御父母様が地上にもたらしたものは真の愛だ。我々が捉えている愛という概念では測れない真の愛だ。それを受けようにも捉えることができなければ、真の愛は私の身体をすり抜けて素通りしてしまう。生活の中に、自然の中に、宇宙の中に、色んな愛の形が存在している。男女間の事柄も愛には違いない。しかしそこにサタン的地上的愛が流れているにも拘らず真の愛の要素を見る事ができると言えるだろうか。御父母様を真の御父母様と認識する我々であれば、真の御父母様から流れてくる全てに真の愛がその背後に流れていて、御父母様の基準の高さに辟易し溜息をつきたくなる自分を超えながら、しがみ付いて行く中でこそ真の愛が見え隠れしてくる。自分の器としてこれ以上の心情的重荷を背負うことは無理だと、限界領域に於いて悶え苦しむその場でこそ真の愛に対する感性を自分の魂に備えることができる。心情の伝授式に於いて真の愛に対する感性の器官を与えられる。人間はこの肉体をまとい肉体の中に生きているという事実が既に堕落の結果として存在していると言うことだ。やがては灰となり塵となるこの肉体を住処として生きていると言う事自体が地上的堕落的であり、この世的に愛と呼べるものも多分に地上的堕落的だ。その愛には唯一、絶対、永遠性はない。唯一、絶対、永遠の神様に会えるとすれば、唯一、絶対、永遠の真の愛を感知でき受け取ることができるということが、必要条件なのだ。地上的堕落的愛に浮き沈みしている魂は、サタン的なものに相対できるとしても神様にまみえることはありえない。
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