2010年1月7日木曜日

ゴルゴダ摂理

最近、天正宮の訓読会のみ言には厳しい内容が多い。今まで伝道が私達の自分の親に対してすら為されていないことや、クリスチャンやキリスト教会への伝道も私達の力不足でできていないことを上げられて、教会を御父様が切らざるを得ないような話をされたり、とても穏やかな状況とは言えない。教会内の一連の事が御父様にそう言わせているとも言えるが、全ては繋がっておりリンクしている為に、私達一人一人の超えなければならない課題、勝利しなければならない摂理が果たされていないためにそういった全体の問題が起こってくる。今年は兄弟一人一人に取っても教会全体に取っても、特に厳しい年になるだろう。それで萎縮してしまってもどうにもならないが、それだけの決意と覚悟は供えなければならないだろう。ある意味、本当の信仰者、真の息子娘が全体の混乱の中から選び出されるとも言えるかも知れない。イエス様が地上にもたらした愛の要素は、当時イエス様や弟子達の迫害の中心的な立場にあったパウロによって広められた。復活されたイエス様にダマスコの地で出合ったパウロの改心、そして復活されたイエス様が人類にもたらしたものをキリスト思想の根幹としてパウロは広めていった。イエス様の愛を植付ける為に人間悟性を耕し、一人一人への神霊の化学反応とも言えるイエス様への目覚めを果たす為にキリスト思想パウロ神学は用意された。ここで神学問答を広げたい訳ではなく、生きたイエス様と弟子達の迫害の中心人物の一人が、今日のキリスト教基盤の中心的役割を果たしたと言う事実を述べたいのだ。十二弟子や彼らに繋がる者達の群れは、再臨時代に於いては御父様に侍る先輩家庭を中心とした教会食口の群れと言う事が出来る。しかしながらイエス様が十字架に架かることで、十二弟子や繋がる者達はイエス様に向かう想いを吹き飛ばされ散らされて一度は跡形も無くなってしまった。肉的サタン的しがらみを越えるほどのものをイエス様との関係に見出されなかったと言う結論が、一度は出されてしまった。御父様と私達の関係が、イエス様と彼らの関係より遥かに強いと断言できるだろうか。私達が、日常の生活であったり糧を得る為の仕事であったり、住み慣れた環境であったりと言ったものに知らないうちに執着してしまって、それが枷となって御父様の願いに対して着かず離れずの曖昧な関係性を許してしまってはいないだろうか。御父母様は勝利されて十字架に架かることは無いにしろ、私達は御父母様との揺ぎ無い関係をサタンに証明してはいない。自分という宇宙で神が立つのかサタンが胸を撫で下ろして喜ぶのか、私のゴルゴダ事件として2013年のその時は刻一刻と近付いている。

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