2010年3月30日火曜日

宇宙を考える

多くの者は、地球という生命体を限りなく広い宇宙に無数に点在する星の中の一つに過ぎないと認識している。宇宙を説明しようとする時に、地上の視覚的感覚的観念を持ってして測ろうとし、認識しようとするけれど、地上的に通じるものが宇宙にも通じるはずだという思いこみを先ず取り去らなければならない。太陽系を描き、銀河系を描き、様々な星雲を周りに描いていったとしても、それは間違いとは言えないが、地上的に捉えると、と言う一言を付け加えねばならない。地上的に捉えればそう描けるわけであって、宇宙は地上的なものを越えている。要するに我々が認識している宇宙とは、宇宙実体の一つの側面の断片でしかない。しかし原理という新しい真理に照らし出せば、地球は宇宙の全てを投入されて創造されてきたという事実が浮かんでくる。地球生命体の頂点に立つ人間が神様の子女として創造されたのであれば、何処か他の宇宙に地球生命体以上の存在があるとは考えられない。もしあるとするなら人間以外の子女的存在を創造されたということであり、地球人間に対する神様の創造過程や復帰路程とは別に、地球人間には全く関与されない形で別の創造が為されていたと言うことになる。神様自身がそれを許すなら、何でもありの宇宙であり全ての原理原則はひっくり返されて創造などはなから有り得ない。宇宙に人間と同じような肉体と魂を備えた別の生命体が存在していると思えるのは、堕落人間の唯物的発想でしかない。真の愛の観念を受け入れ、血統の意味を理解し、神様の心情に繋がる人間となるならそう言う発想は有り得ないはずだ。宇宙と言う存在は地球生命体を創造する為に存在し、地球生命体を存在させる為に存在しているのであり、人間という自我存在を支える為に魂存在がありこの肉体があるように、地球生命体を存在せしめることが宇宙の目的であり使命なのだ。よって宇宙は叡智の存在でもあり、意志の存在でもあり、心情の存在でもある。大気圏の向こうの宇宙に眼を向けながら、燦然と輝く星空や星座の動きなどを視覚的に捉えるだけでなく、視覚で捉える事の向こうに叡智を見ようとし、意志を見ようとし、心情を見ようとしなければ宇宙の本質に問いかけることにはならない。

2010年3月29日月曜日

絶対信仰を考える

私の理想であり希望であるまだ見ぬ事実。その事実への確信をゆるぎないものとする。それこそが絶対信仰とは言えないだろうか。であれば絶対信仰の基準とひとつになれば、未来を既に手中に収めていることになる。絶対信仰は過去や一瞬毎に過去となっていく現在には主管されない。御父様を信じお父様が語られたみ言を信じるのはその通りだけれど、信じることの本質を失ってはいないだろうか。それとなく御父様の輪郭のみを思い描き、み言の表面をなぞらえているだけなら信仰の本質に迫ってはいない。信仰が生きた言葉となる為には理想であり希望となる事柄が事実に繋がる過程を見なければならない。自分と言う存在が本当にその過程上に生きているかを問うべきだろう。御父様という理想を頂き、全体であれ家庭であれ或いは個人であれ、復帰にしろ創造にしろそれぞれの希望を抱きながら時を刻んでいるけれど、本当にその理想を標榜し、その希望への飽くなき熱望を保持し続けて時を積み重ねているかと問われれば自信はない。理想はあるけれど到達できないものであり、希望はあるけれど夢は夢でしかないだろうと言う立場なら、それは理想でもなく希望でもない。まだ見ぬ自分という理想実体、希望の実体を未来に見据えることとは、それに応じた決意と覚悟が取引として自分にあるかだ。理想と希望を自分の言葉として勝ち取ることは、必然的に決意と覚悟がその言葉の裏書として要求される。理想と希望が高ければ高いほど、決意と覚悟は深くなる。決意と覚悟が自分にないなら、絶対信仰の基準と一つになることは出来ない。

2010年3月28日日曜日

平和の天使

復帰されて高校生部として教会に通っていた頃、平和の天使が我が町にやってきた。原爆が落とされて、まさに生き地獄が繰り広げられたこの町に、平和の天使が舞い降りる。大輪の扇の花を可愛い笑顔で飾られたポスターが至る所に貼られて暗い街は彩られた。復帰されて間もない私は子供の舞踊と聞いて差ほど興味を覚えず、それよりは高校生に取っては高額のチケットの購入を薦められて困惑していた。一部屋四千円のボロアパートで暮らしていたから一枚の代金で三ヶ月は暮らせる。どうやってその購入代金を遣り繰りしたらいいのだろうか。更にそのチケットを何枚販売できるかと言われても口篭るしかなかった。一枚でも多くのチケットを売ることが願いだと言われれば、自分の頭に浮かぶのは親しかいなかった。今思い出そうとしても断片の記憶しか残っておらず、確かに二人の親と一緒に公演を見たのは覚えているが、その三人で鑑賞している映像に向かうまでの過程が抜けている。親に取って田舎から繰り出すことはそう簡単なことではなかったので私なりに説得したに違いないが、舞台を見る親の顔が沈んでいた印象があるため、決して喜んで来た訳ではないだろう。しかし記憶は抜けていても公演を見た後に覚えた感情は今でもありありと残っている。それは平和の天使の世界と自分と言う境遇との隔たりだ。美しく、清らかで、笑顔を絶やさず、感動を与える存在と自分を比べた愛の減少感と、素直に感動を受け取れない自分への苛立ちと、平和の天使をいつまでも仰ぎ続け決して同じ内的ステージには立てない惨めさだ。幕が下りて、幸福感に満たされた客達が声を弾ませながら街中に散らばり消えていく。自分と親だけが取り残されたように、出口で暫く佇んでいた。ステージなど見たことも無く、母は映画すら見たこともないので面食らったようで、建物から客の群れが吐き出されるのに揉まれてうろたえていた。喧騒が去り静寂を取り戻すとやっと落ち着いたようで、綺麗だったねと一言私に言ってくれた。母のその一言で私の中のいろんな思いが一変に消え去った。愛の減少感も苛立ちも、惨めさも吹き飛んだ。平和の天使の癒しは母の一言を通して私にも訪れた。

2010年3月27日土曜日

宇宙の春 (2)

思春期を迎えた子供の様に、異性への意識に目覚めて心を熱くするように、宇宙の春を迎える人間は霊界という高次世界に目覚めて心魂を熱くする。年頃になれば異性は異性として熟れ始め、愛に酔う魅力を備えて引き合うように、宇宙様相は宇宙の春を迎えるために成熟期に入っていく。地球という存在がアダムとエバが住まうエデンの園として、宇宙の全叡智を総結集して創られ、地球ほどの存在は宇宙の何処を見ても見当たらないと思う。であれば今宇宙の春を迎え、目に見えて思春期の変化を最も見るのは地球という生命体だろう。子供の頃に夢を見せられ、半世紀近くも経った今でさえ、未だに忘れない鮮烈な映像として見せられた光り輝く地上を、肉体のあるうちに見ようとしている。肉体が変化し、思考が深みを増し、感情が彩りを増す思春期の一大変化を、宇宙の思春期として今人間を含む地上的な全ての存在が体験しようとしている。御父母様が勝利されて地上にもたらされたものが想像を絶する内容であることを、腰が抜けるほどの驚きで体験するはずだ。御父様に帰依した多くの食口でさえ、宗教概念に捕らわれた態度でみ言や摂理に対して来た訳で、これから起こる宇宙的変化や地上的変化、自分の肉体変化さえももたらす魂の変化を、思いもよらなかったこととして体験しようとしている。まだ見ぬ事実は確実に時を刻んで現す時を待っている。宇宙の全存在が注目しながらこの時を見守っている。霊界と地上界が分けられ、内なる世界と外なる世界が分けられて、魂の孤独を味わい続けた歩みに終止符が打たれる。御父母様を迎えた内なる宇宙にも春が訪れる。未だに厳しい冬が内界を覆っているように思えても、春の訪れを真っ先に告げるマンサクの細い花が、内界の何処かに咲いているはずだ。

2010年3月26日金曜日

宇宙の春

この地上で歩みながら多くの恵みを受け取っている。しかし受けている恵みを認識できずにいる。空気を吸うことが当たり前のように、受ける恵みを当然の事とされ意識上に置かれはしない。外界にある全ては私の為に神様が差し出して下さったものだ。外界に起こる全ての事柄は私の気付きの材料としての学びの出来事だ。外界は神様が自分の息子娘に良かれと思い差し出された一つ一つであり、その一つ一つは子を想う愛おしい想いに満ち満ちている。しかし親の想いは子に通じてはいない。それどころか自分に親である神様が存在することすら気付いていない。神様から見るなら、与えれば与えるほど子供は背を向けて遠ざかっていくようだ。善悪の道理が愛の道理とは受け取れず、自分を裁くものとしか受け取れない。愛の中に自分が生かされていると思えるのではなく、裁きの目に自分は曝されていると感じている。愛に包まれて生きるべき私が、愛の道理を遠ざけ自分の偏見の道理を当てはめて生きる。目の前のものは、関心がなければあってないものであり、自分の欲の対象にだけ関心を向けようとする。身の回りに起こる様々な事柄も、必要とされる愛の道理ゆえに起こるのではなく、自分の思うように生きる自分に対する向かい風の抵抗でしかない。ラッキー、アンラッキーで全ての事柄を分けてしまっている。そこに真の愛の道理は働かない。別の道理を当てはめ、別の世界に生きている。今、堕落の道理に馴らされた魂が、真の父母に拠って魂の変革がなされようとしている。愛を愛として受け取れる本然の魂の在り様に変革される。外界と言う宇宙に神様の愛が満ち溢れ、内界との隔たりを築く必要はもはやなくなる。御父母様が勝利されたことで外界は宇宙の春を迎えようとしている。外界である宇宙と内界である魂の垣根が取り払われ、宇宙の春を私の春として謳歌し、宇宙の喜びが私の喜びとなる。

2010年3月23日火曜日

今日の想い 157(再度の公開)

重い日記を書き続け、書いたものを公開し続ける。もしもこのブログに目を通し続ける者があるならば、得体の知れない不気味な魂を覗き続けることになる。誰かは見ていてくれるのかも知らんと思っていたけれど、良く読み直してみれば私という混沌に引き込むことになる。食口の中にはこんな次元の低い者もいて、共感を得ながらも頭を掻き毟る状況から抜け出すために、内的知恵をそれぞれが引き出せればいいのかとも思うが、教会用語で言うところの基準が立っている食口に取っては無駄に回り道を勧めることになるのかも知れない。それ以前に頭を混乱させるのではと思ったから一時公開をストップしたけれど、考え直して敢えて公開することにした。せめて御父母様を慕い侍る意志を持つまでに繋げなければ、途中で投げ出したらサタンに加担したことになってしまうだろう。私としては自分と言う存在をそれ程変わった存在とは思っていない。家族をはじめ周りに集う者達も私の事をごくごく普通の人間であり教会食口だと思っているはずだ。しかし自分が内面に目を向け魂の在り様を見るならば、どろどろしたもので溢れかえっている。周りの人間を見ながら、ざっくりとした魂様相しか捉えることしかできないから、それぞれが百様の複雑感情を見せながら複雑極まりない魂の在り様を為していることには気付かない。その実体をあからさまに曝され、周りのものがそれを見るとするなら、堕落人間は共同生活をすることはできない。中間霊界のように、辛うじて似たもの同士が集まって集落をつくり生活する以外ないだろう。それさえもお互いの間に距離を置き、授受し合って助け合う程の関係には至らない。せめて自分の魂の在り様を直視し、それを自覚した者としての歩みとすべきだ。それがなくて御父様御父様と呼ばわる者は偽り者だとさえ思う。所詮、もがいているとしても未だ堕落の血統圏から抜け出せずに居る。小善を行い少しの実績を捧げたとしても、そこに自分と言う堕落存在の自覚がなかったなら、御父様と呼べる資格はない。否定的文章の多い堕落圏からの発信から、天に向かう意志を視る肯定的文章を発信できるよう、毎日の戦いは続けられる。

2010年3月22日月曜日

今日の想い 156

時の経過はあまりにも早すぎる。考える間もなく子供は大きくなっているし、若くて元気な時の妻に触れた記憶も思い出せないほど、今目の前にしている色艶の無い白髪交じりの妻を目にする現実の方が大きい。妻に対する女性的なものへの期待や、身体を重ねたい想いだけに駆られて夫婦と言う時を過ごして来た訳ではない。が、細くなった身体を眺めながら寂しいと思う実感はどうしようもない。堕落的なものを超えて余りある本然の夫婦としての一体化を標榜しながら、堕落的で肉的な魂の在り様が、堕落的で肉的なものを相変わらず求めているだけなら、一つになって霊界で暮らせる夫婦とはなりえないはずだ。夫として妻に要求ばかりし続けて来た過去の事実がある故に、今の妻に対する寂しい思いがあるのだろう。病を煩い神経質な私に沿い続けながら年を重ね、年齢以上にやつれてしまった妻に対する責任は全面的に私にある。与える水を与えなかったから枯れたのであり、与える養分を持ち合わせなかったからあらゆる機能を低下させた。要するに妻に与える愛を私は持ち合わせなかった。私のせいではない何か他の足りないものがあると思っていたけれど、足りないものはやはり私の妻への愛だった。彼女に取って、私が気付くのが遅すぎたとしても、それでも夫である私を捨てることは無いだろう。この世であってもあの世であっても、必ずや私が彼女に与える真の愛を受け取れる日がいつか必ず来るはずと、信じて待って私をサポートしてくれている。たとえ堕ちるところまで堕ちたとしても、夫婦の凹凸は強く合わさって永遠に離れることは無い。共に地獄の火の海を掻い潜るとしても、一人離れて天国に昇ることなど有り得ない。二人両隣に居ないのであれば天国であっても天国ではない。私のせいで白くなった彼女の頭髪を、時間をかけて染めてあげる。やっと染め上がり黒々となった髪の毛を鏡に映し、満足そうに微笑んでいる。この些細な出来事を喜びとし、滅多にない微笑んでいる妻を鏡の中に見ながら、申し訳なさで目頭が熱くなる。

2010年3月21日日曜日

今日の想い 155

夫は妻を、全女性の代表として愛する。御父様は御母様に向き合い手を繋がれて、宇宙の全女性的なものをかき抱かれようと御母様という女性的頂点を愛される。御母様を、焦点を限りなく絞られた小さな目で見つめられながら、見つめられる御母様の目の奥に広がる宇宙の女性性相に対しておられる。この身体に備えられた両の目は、光によって創られた光の子だ。だから目は親なる光から光の本質を相続している。光の本質とは闇に秘められた神様の叡智を照らし出し、形あるものとすることだ。光が創造されなかったら宇宙の創造は有り得ない。人間はこの両の目を光から預かっている。預かったこの目を用いて本質を照らし出さないのであれば、預かっている意味はない。御父様が御母様に向き合われるように、私は全女性の代表である妻に向き合っている。妻に向き合いながら妻本人も知り得ない女性の本質を照らし出そうとしている。女性は男性に取って永遠の謎かも知れない。謎という闇に陰性的であり女性的な秘められた叡智が眠っている。秘められた叡智に光を当てるのが夫の役目だ。叡智を照らし出すことは堕落的地上世界から本然の世界を創り出す作用を及ぼすことになる。夫婦が一つになるという意味は、仲がいいとか上手く助け合っている等といった、表面的な意味を言うのではなく、一つになることで叡智を照らし出し創造の力を紡ぎ出すのでなければ夫婦一体とは言えない。御父母様は宇宙的次元でそれを為しておられる。語っても語っても尽きることの無い御父様の底知れない天の叡智は、御母様なしでは照らし出されはしなかったろう。太陽存在が月存在という対象を得たように、夫としての太陽存在と妻としての月存在が結婚して産まれたのが地球存在であるなら、地球存在は妻を迎えなければならない。御父様が御母様を迎えられ勝利されたことで、地球存在の結婚という地上的大変革が為されるはずだ。ミラージュ(蜃気楼)が現実の様に現れて、霊界と地上世界が区別できない空中時代とはそういうことだと思う。

2010年3月20日土曜日

呼吸の霊的意味

背筋を伸ばし、頭を挙げ、口は閉じて目は真っ直ぐ前を向く。深い鼻呼吸でゆっくりと吸い込みゆっくりと吐き出す。肺臓一杯に吸い込んだときが最上位の水平位置であり、しっかり吐き出した時が最下位の水平位置だ。最上位が私が今霊的世界を垣間見れる、いや垣間触れる高次の限界位置であり、最下位が最も低い世界、即ちそれ以上下がることの無い地上界という底の位置だ。肉的に言えば空気を呼吸していると言えるけれど、呼吸の霊的な意味は霊の呼吸だ。人間が霊の存在であり万物の霊長と言えるのは、霊を呼吸する存在であるからだ。動物も勿論呼吸する。肺呼吸する動物を人間と同じ次元の霊の存在とは言えないが、高等動物になるほど呼吸は深い。人間は霊を呼吸しているけれど、のべつ幕なしにありとあらゆる霊として呼吸しているわけではない。魂の在り様と相対基準の合う霊として呼吸している。魂の輝度が高ければ高次の善霊を呼吸を通して身体に迎え入れるのであり、自己中心的な魂の在り様であれば自ずと自分よがりの低次霊が身体を侵食する。霊を呼吸するとせずに、霊として呼吸すると記したのは、善人も悪人も同じ呼吸をしながら霊が人を選ぶのではなく人が霊を選ぶからだ。わかりやすく敢えて二者択一で説明するなら、善人が霊の善の側面を呼吸しているのに対し、悪人は霊の悪の側面を呼吸している。自分が霊的存在であるとの認識が為されず、物質存在が心を持っているというような感覚の方が圧倒的だが、呼吸を通して霊的呼吸への意識を持ち、霊的呼吸に対する思考を深めるなら、自分が肉体存在である以前に霊的存在であり、霊によって活かされていることを感覚的に理解する。何かの事柄に主管されようとする時、呼吸は浅くなる。主管しようとする霊の存在が呼吸に縛りをかける。縛りを解くためには呼吸を深くしながら霊的な自由圏へ移行し、その霊の存在を主管する別の霊的存在を高次の霊界から迎えなければならない。悩みや問題が、思い至った気付きや言葉で解決されるとは霊的に言えばそういう意味だ。

2010年3月18日木曜日

今日の想い 154

オレンジ色の西日が指し込み、部屋の奥まで淡い光を届けると、あっけなく日は薄れて暮れていく。この西日に身を預けるとどこか寂しい気持ちが頭をもたげる。心を涼しい風が通り抜けるような、何とも言えない愁いの感情に沈む。統廃合した中学校の寄宿舎で、ホームシックに罹りながら、日が傾く頃になると決まってそんな気持ちになった。今でも夕暮れ時に差し掛かると、心を軽く絞られるような気分の中で、子供の頃の母の居る情景やらにおいやらがゆらゆらと立ち上ってくる。おそらく臨終に差し掛かれば、西日に浸る気分を最も深めながら、切なくも優しい色んな情景が身を包み込むに違いない。夕べにそう感じるのとは対照的に、朝日を浴びながら受け取る感情は、今日一日に対する期待感だ。今日なすべきことを魂に生起させ、それに対する前向きな感情で満たして今日を生きる決意をする。毎日を送りながら、朝に太陽が昇っていく気分と、夕べに沈んでいく気分を交互に味わい、その感情の違いを地球の呼吸として経験している。朝に吸い込み、夕べに吐き出す。一日が地球の一呼吸を意味している。地球の呼吸を魂の感情部分で味わい共有しながら、地球のリズムと波動の共鳴体としての私がいる。地球が吸気する朝に、既に今日という日が終ったかのように感情を後ろ向きに満たすのは、地球の生命リズムに反する。吸っている時に息を吐こうとするようなものだ。み言を訓読しながら、昨日を生きて内的に学んだものを踏まえながら今日を生きる指針とする。吸気することで戴く朝の生命力をその指針に合わせて投入する。地球生命体に組み込まれた者として、地球の一呼吸毎に内的進化、霊的創造の一つ一つを差し出している。

2010年、春に想う

春を通り越して初夏を思わせるほど気温は上昇し、上着を脱いでも汗ばむほどだ。雲ひとつ無い青い空は、春の太陽の軌道を一日中表し、木々の幹や枝はひと時として欠けることなく日差しを受ける。受ければ受けただけの実りを差し出すものとして、彩りさえも見て取れるほどに枝という枝に芽を吹かせている。この陽気が数日も続けば、全ての木々は一遍に花を咲かせるだろう。幼少期から思春期へと、人間成長の最も見られる時期を、2010年と言うひとつの時の霊が今生きている。地上の景色はこの数週間で大きく変化を遂げる。小鳥は春に訪れる音の霊を受けることで、艶やかに鳴く喉を設ける。植物は春に訪れる光の霊を受けることで色とりどりの花を咲かせる。音の霊達や光の霊達が競演しながら働きかけ、地上の春と言う花を宇宙に差し出す。この春の息吹を生命の力として、私は受け取ることが出来るだろうか。溢れんばかりの息吹を、私は魂の力に変えて受け取ることが出来るだろうか。この小さな魂に、このガラス細工のような壊れやすい魂に、大きな大きな宇宙の力の一滴(ひとしずく)でも受け取ることが出来るなら、私と言う人間一人が正しく生きる力くらいは何のことは無いだろう。針の先ほどの魂でありながら、ありとあらゆるこの世的感情が手放せない想いとして煮え滾っている。魂を開いてこの執着のひとつひとつを、余すことなく青い春の空に思いっきり投げ出すことができるなら、どれほど清々するだろう。そうして空っぽになった魂に、春の息吹が勢い良く入り込む。魂の中で音の霊達と光の霊達が競演しながら、春の復活祭をお祝いする。

2010年3月17日水曜日

今日の想い 153

心の休まらない日々を送り始めたのはいつごろからだろう。不安の靄に覆われたままで年が明け、季節は変わり、気が付いてみると春の陽気に地上は包まれている。花々を咲かせ、緑を新しくする木々の復活を共に味わい、共に喜びたいけれど、私の内に春の訪れはまだ聞こえてこない。何か置き去りにされたような気がして、不安が心と体を重くして、身体を動かすのも足を運ぶのもしんどい。溜息がその度に出そうになるのを何とかこらえて、大きく深呼吸をしながら辛うじて心と体のバランスを取っている。溜息の一つでもつけば忽ちに私と言う存在は音を立てて崩れていく。私の中で私を霊の柱として立てる為に、数え切れない霊的存在が働いている。崩れ折れそうな心を説得し、暗黒の前途を勇ましく切り開いていく為に、それらの霊的存在は働いている。絶対善霊、祝福先祖、そして天使の群れが背後に見える。しかし前進する意志だけは私が担っている。それは私の中の御父様が担っているものでもある。暗黒の前途に突進する決意と覚悟という意志さえ差し出せば、霊の協助を得ることが出来る。私が意志を差し出すことは、私の中の御父様がその意志を差し出すことだ。だから、私と言う存在は御父様の代身であり御父様の証し人なのだ。不安と言う暗黒は、飛び込んでしまえば全く新しい世界だったりする。暗黒の中に魑魅魍魎を想像するけれど、飛び込んでしまえば実は別の次元の天使が微笑んでいる。今までどれほど不安と躊躇が前途を直視することを遮ったことか。その向こうに希望と理想が待つ境界線を、不安と躊躇が超えさせなかったことか。不安と躊躇の幽霊を手放さなかった事が、どれほど摂理を遅らせただろう。能動的、挑戦的であってこそ、成約の勇士と言える。虎の子は虎だと言えるように、御父様を慕う者は愛に裏打ちされた強い霊の柱、この身を貫く神霊の柱を太く一本立てるべきだ。

2010年3月15日月曜日

今日の想い 152

与え続けても、与え続けても、ひたすら投入してきたものは、砂漠に水を撒くように底なしの暗闇に吸い込まれ、その影さえも残してはいないようだ。それでも愛ゆえに与えることを止めることはできない。過去に於いて実らなかったものも、この愛には必ず応えてくれると信じて与え続ける。親に取って子は与え続ける対象だ。身を削り骨を削り、魂を削りながらも与えることを止められない。裏切られた愛として返され、返されたもので心を切り刻むとしても、切り刻んだ心で又も与え続ける。親にならなければ愛を見ることができなかったろう。空気の様にあることすら忘れて、受けていることも忘れて、与えてくれる存在に牙さえも剥きながら生き恥を曝し続けたろう。愛を愛と認識せずに受けることはできても、愛を認識せずに与えることはできない。与えようと思えば愛の意味を見ざるを得ない。私は神様に対してどれだけ不平や不満をあからさまに投げつけ、恨みを吐いてきたか知れない。実は未だに親なる神様に対して、本当の感謝を差し出すことができないでいる。私が直面している問題だけを必要以上に誇大化させ、被害妄想に襲われながらもその責任を時として神様に問うている。本当は非の全ては自分にあることをわかっていながら、どうにもならない焦燥や鬱憤を投げつけて責任転嫁しようとしている。親として子に向かいながら、神様に対する自分の在り様を子の中に見ている。神様に対して投げつけているものを、同時的に子供が私に対して投げつける。神様が私と言う砂漠に与え続けてきたように、私は自分をその中に見る子供に対して与え続ける。子に対するこの思いこそ神様の私に対する思いだ。感情の大波に揉まれ、何度も何度も砕かれながらも、それを通して神様の私に対する心情を味わっているのだ。

2010年3月14日日曜日

現状に想う

あくまで正分合であって、正反合ではない。宇宙の創造過程にあっても常に正分合作用が創造の為のプロセスだった。陽と陰、主体と対象に分けられたものが授受作用を為して新しい創造としての合一体となる。私は創造過程の如何なる段階であれ、繰り広げられる授受作用が思うように簡単で、生易しいものであったとは思わない。内的霊的創造であれ外的肉的創造であれ、主体と対象それぞれの生命を削りながらぶつかりながら一体となって創り上げられた宇宙創造過程であったはずだ。堕落してカインとアベルに分けられ、カインはアベルを立てることで一体化を願われた訳だが、宇宙の創造過程に於いても、どちらかが主体に立ち、片方が対象に立つのは同じことで、おそらく兄の位置が主体であり、弟の位置が対象という本来の位置関係が働いて為されたことなのだと思う。堕落したから善の表示体、悪の表示体として分離せざるを得なかったとしても、もし堕落しなかったらカインとアベルは分けられることは無かったのだろうか。それはあり得ないと思うし、兄と弟にやはり分けられて氏族的なものとしての創造が為されるための一体化が要求されただろう。そしてその一体化は決して生易しいものでは無いはずだ。アダムとエバが堕落しなかったらその後の事柄はすべてうまくいったかのような理解をしているけれど、決してそうではない。勿論サタンの介入は許さなかったとしても、創造の為の一体化の道のりはそれなりに険しいと思うのが当たり前の感覚に違いない。御家庭の心配を誰もがしているが、一体化されて新たな次元の段階に向かわれる為には避けては通れない事なのだと思う。それは決して我々が考えるような堕落的なものではないだろうし、極と極までに別れられたように思われるとしても、真の家庭の真髄を必ず見せられて、我々の想いの寄らない天的一体化の化学反応を示されると私は強く信じて疑わない。或る意味、私達は真の家庭の現状の中に学ぶべきことを見せられている。中心者が右と言えば右を向き、左と言えば左を向いてきたけれど、兄弟姉妹がひとつの心霊段階を超えた今、中心者を神の位置に置かず兄の位置に置いて、ちゃんと物言う対象であり物言う弟となるのでなければ、中心者の言葉に対して有無を言えない立場は本当の一体化を標榜してはいない。

2010年3月11日木曜日

今日の想い 151

ドクターから再度の透析の話があると、妻の表情は凍りついた。渡された検査結果の紙面に視線は釘付けされたまま離れない。数値を見る限り、移植した腎臓の機能低下は火を見るより明らかだった。メディカルセンターからの帰り道、思わしくなかったのは移植した直後からであり、自分の不養生のせいではないと半ば興奮気味に話していた。自分のせいではないと言い張ることで現実から逃れようとするけれど、誰のせいであれ逃れることはできない。言いたいことを一通り吐き出すと、今度は打って変わって黙り込んでしまった。これから痛みや苦痛を伴って自分の身に起こりうることが心の内側にイメージされ、意識を背けるように深海の底まで落ち込んでいく。決していつまでも働き続けるものではない。それが一年であれ数年であれ必ず機能しなくなる時を迎える。それはわかっていた。頭ではわかっていたけれど、感情がそれを受け止めてはいなかった。感情が現実を受け止める為の説得期間が必要とされる。これからどれだけの時間をかけて妻が自分を説得するのかわからないが、お互いが暫く重い空気の中で、苦しい呼吸をする日々がこれから続く。お互い健康のありがたさは嫌と言うほど思い知った。しかし健康であることが普通の事で、病に冒されれば謂れの無い仕打ちを受けているという思いは未だに強い。病に臥そうが自分の身がどういう状態であれ、自分が置かれた今の位置こそゼロポイントであり、健康であることが普通の事ではない大きな祝福の位置であり、それを戴くには畏れ多いと思えるほどに謙虚さの密度を濃くする。それでこそ外的に打たせて置いて、内的霊的な大きな気付きと成長を得ることが出来る。堕落人間に取って、自分から打たれる立場に向かう意志を持つことは至難の技だ。しかしながら病は自分の意志の強弱に係わらず訪れる。この身が病に冒されれば有無を言わさず打たれてしまう。仕方なく打たれた立場であるけれど、打たれた以上奪い返すものがある。宇宙のバランスは例外なく働き、打たれれば打たれるほどにそれに応じて与えられるものが必ずある。ある意味、病を受けたものは受けるに足る器と使命感を備えている。多くの兄弟姉妹が病に侵されながら、それを条件としてサタンから天の側に奪い返されたものが少なからずある。そう言う意味で健康な人よりも大きな功績を摂理進展に寄与している。犠牲となり為に生きている。自分の外的肉体という供え物を犠牲にすることで、健康な人が受け取ることは許されない、或る内的霊的、魂的、高次の力と技能を受け取ることができる。

2010年3月10日水曜日

今日の想い 150

堕落世界や堕落存在の全てを、完全に御破算にする選択肢はあったのだろうか。あるのはあったとしても神様がその選択を今まで取らなかっただけなのだろうか。堕落して神に反旗を翻す存在になってしまっても、敢えてその存在を処分できない理由を原理は説明しているけれど、それを人情的に理解するにはなかなか無理がある。天のそう言った事情を理解するには、為に生き、犠牲の歩みを供えて見えてくる、心情として理解するとしか言いようが無い。自由を与えれば堕落の可能性があることはわかっておられた。堕落すればどれ程悲惨な神になられるかもわかっておられたはずだ。原理原則を創造された神様であるけれど、原理原則を創造することの意味は原理原則に生き、それに縛られることだ。即ち愛の道理としての原理原則のなかに生きることをわざわざ望まれたのだ。堕落した時点で既に失敗の神だというレッテルを堕落した側から貼ったとしても、神様御自身は失敗と言う言葉を持ってはおられない。愛の道理に失敗という概念は無い。堕落が起こればそこにより犠牲的な愛を投入される衝動があるのみで、堕落に係わった悪魔の存在ですら、より犠牲的な愛が必要とされる存在としか見ておられないに違いない。サタンはそれをよく知っており、敢えて挑戦的に愛の神様を試し続けてきたのだろう。愛の道理を否定できない弱みに付け込み、どこまでも試し続けるサタン側に対して、神様はひたすら打たれ続けることに専念されてこられた。絶対主であられ、万軍の主であられる神様が、愛ゆえに悲しみの神となることを自ら意志され、悲しみの神として敢えて呻吟し続けてこられた。今日までの復帰歴史を尋ねながら、愛の道理を貫いてこられた神様によって、創造当初の愛から今日の愛はそれ自体が犠牲の涙で染められている。真の愛と言える愛は、犠牲の涙がその本質なのだ。真の愛に生きる御父様も犠牲の涙が御父様の魂様相であり、御父様を慕って生きる統一の群れの魂も、犠牲の涙がその在り様となる。

2010年3月8日月曜日

今日の想い 149

今日の一日を生きることができた。生きることの本質を理解するなら今日の一日を生きることができたことが本当に感謝なのだ。明日をも戴いて生きることなど望むべきではないし、明日が今日の延長であって当たり前のように明日を迎えるなどと思うべきでもない。明日生きることを願う自分が欲張りだと思うほどに謙虚であるべきだ。今日を終えれば地上生活は終わると思ってこそ、今日生きることの密度はとことん濃くなる。何の感情も持たずに見慣れた景色を目にしているけれど、生きる密度が濃くなればそこに存在している全てのものや、身の周りに起こる全ての事柄が、それらの存在の意味を見せてくれるし話してくれるようになる。この毎日の日々が半永久的に繋がっていると思うところの、天にすれば傲慢以外何物でもないこの私は、今日という日をどれ程ぞんざいに扱っていることだろう。適当な気持ちで今日を生きて誰が、そしてどういう存在が、私に対して親身であり真剣に対応してくれるだろうか。本質的に生きるのでなければこの世界は本質を差し出すことは無い。今日の与えられた課題に対して恐れず逃げず、全霊を投入して事に当たる。適当にごまかし曖昧にする自分こそが戦う相手なのだ。自分との戦いに勝利しない限り、今日を闘って心と体が統一されない限り、自由な一日とはならず、平和な一日とはならず、幸福な一日とはならない。一日を終えてみてどの様であったとしても全てを報告しながら、未だ御父様という人間理想への道半ばであることへの謙虚さと、悟れないにしても今日の歩みに愛の関与して下さった天の御父様を始めとするあらゆる霊の存在に対する感謝の想いで内面を満たす。他の感情を一切排し、謙虚と感謝だけを魂に満たして今日の一日を締めくくる。そうできれば、もし明日と言う日が与えられるとして、前日の負債を引き摺ることなく、後ろを振り向くことなく前進できる。

2010年3月6日土曜日

太陽と月

昼には凝視できない太陽の光を直接浴び、夜には淡い月の光に包まれる。太陽の光には宇宙の父親としての愛がその本質として流れており、月の光には宇宙の母親としての愛が流れている。父性愛は太陽光の如く直接的であり、母性愛は月光の如く反射された光として間接的だ。太陽光が影の存在を炙り出し白日の下に曝し出すと見て取られる様に、影の在り様を内包している堕落した身にしてみれば直接的な太陽光は裁きであるけれど、負債の陰りも無くなるのであれば直接的な太陽光を受け取ってこそ封印されて眠っていた人間本来の神性が目を覚ます。外界で太陽光が余すところ無く照らされているように、私と言う宇宙に太陽が輝き始め負債の陰りの浸入は許されない。月は太陽の妻として太陽光のみを受け取り、主体としての太陽の望みを叶える為の反射光を差し出す。本来そう在るべき人類の母としての月存在(エバ)が、太陽存在(完成したアダム)以外と関わりを持ったという事実が人類始祖において起こってしまった。堕落した人類は、太陽存在からは真の父性愛を受け取ることが出来ず、ルーシェル存在が人類の父として君臨し、またルーシェルの影響下に於いてルーシェルの光を反射する月存在(堕落したエバ)として母性的なものを受け取っている。太陽という外的表示の本質、太陽存在を迎えることができず、月という外的表示の本質とは繋がっていながらも本質自体がルーシェル的に歪められている。ルーシェルと、そして太陽存在を裏切った月存在という偽りの父母が人類の父母として君臨してきた。真の父母を迎えるという意味は、完成したアダム即ち太陽存在を迎えることであり、完成したエバ即ち太陽存在の光のみを反射する月存在を迎えるということだ。偽りの父の本性を堕落した母から受け取ってきたものを清算されながら、真の父母によって生まれ変わる人類が誕生する。新しい人類は太陽の本質を直に受け取り、月の本質によって太陽的に肉付けされていく。今まで使われていた太陽暦は堕落的に修正された都合のいいルーシェル的太陽暦であり、太陰暦に重心を置かれたことの意味は大きい。今まで内的霊的な基盤を築くのが中心であったものが地上的な事柄に肉付けされ始めた。

水仙

子供の頃、水仙の蕾を暫く見ていて、パッと花びらが開いた瞬間に出会えたことがある。田舎にはまだ薄汚れた根雪がしっかり残っていたが、そこだけは雪が窪み、数本の薄黄緑色の茎や葉を青い空に真っ直ぐ伸ばしていた。数株が力を合わせて、根雪に押し固められた地中の土を押し上げながらも、周りの雪の冷たさが身に染むのか茎や葉の緊張が薄れた黄緑色に表れている。暫く眺めながら、実は雪が窪んで根雪が溶けかかっているから芽を出したのではなくて、水仙の生命力という熱が土を暖め雪を溶かした事実に気付かされた。その場にしゃがみこみながら子供心に関心していると、まだまだ蕾は固く花開く気配さえも感じさせなかったが、そのうちのひとつが、ゆっくりと、しかし確実に私の目の前で花弁のひとつひとつを開いていった。周りの時間は止められて、その小さな蕾が花開くことだけに時の流れは費やされ、同じ高さに目線を合わせ食い入るように見入る私にだけ、その生命の神秘を差し出した。時間にすればほんの十秒そこらの出来事だったが、劇の一幕を見るようなその経過から、子供の心に落とし込む何かを受け取った。言葉にできない今までに経験したことの無い胸の高揚を覚えながら家に入り、冷えた身体をこたつで温めながらも、この体験は親兄弟にも誰にも決して話さず、自分の中にだけ留めておくべきなのだと強く思った。話してしまうと神秘の扉が閉ざされ、私は永遠にその扉の内側には入れないだろう。そんな気分に満ちていた。自然の中には想像を絶するほどの内的霊的叡智と、心情と呼んでもいい底深い感情に溢れている。人間として生きながら、それに比べて自分の魂活動があまりにも薄っぺらなように思われ、自然の中の全ての存在に対して畏怖の想いに沈められる。

2010年3月5日金曜日

希望

結局は希望を持ち続ける者が最後まで残る。人間堕落というおぞましい事件が起きても、復帰の摂理が不可能に近いという現実があっても、更に中心人物の失敗がうず高く積まれ続けていても、神様は諦めることなく復帰に対する希望を繋ぎ続けた。キリストの到来という神と人類の積年の望みを、十字架によって叩きつけられ打ち砕かれた時でさえも、それでも希望を仰ぐ意志を捨てられることは無かった。それ故に宇宙は存在し続けている。それ故に私は存在している。存在して、今こうして真の御父母様を仰ぎ見ている。生きてこの眼に外界を映しながらそれは神様が私を通して見ているのであり、生きて地上的経験を受け取りながらそれは神様が私を通して体感しておられる。私を生きるという過程を経ながら、創造歴史の始点から理想を持ち続け、希望を繋ぎ続けた神様の愛という名の復帰に対する執念が、生きる過程の背後に流れている。愛という名の叫びがその流れの中から聞こえてくる。生きて神様を実感するとはそういうことだ。神様が私の中で働いておられる。私を通して涙を流し、私を通して憤怒される神様が、私の中で生きておられる。私が希望を持ち続けることを諦めれば、私に関する未来の事柄が消え失せるだけではなく、私の中に生きておられる神様が創造歴史以来繋ぎ続けてきた理想や希望を失うことになる。親の愛が子供の数で割り算されることが有り得ないように、私に願われた神様の理想や希望が他の誰かの理想や希望に取って変えられるものではない。私は私でしか叶えられない神様の熱い想いを背負って生きている。年老いた親なる神様を背中に背負って生きている。どれ程遠い道のりであっても、けっして希望を捨ててはならないのだ。

2010年3月4日木曜日

今日の想い 148

この大宇宙の極から極という、億星霜の距離を真の父母と堕落的私の存在との間に置かれ、真の存在や真の愛との一瞬のふれあいさえも有り得なかった実情が、肉体を持たれた生きた御父母様を地上に戴くことで、御父母様の想いや願いを共有できる可能性すら目の前にあるという奇跡を生きている。堕落的肉心に長い長い年月を主管され、その性質が抜けきれないままでは幾ら手の届く所に居られたとしても御父母様の願いを共に生きることは許されない。そこに到るにはそれぞれの蕩減があり路程があって、イスラエル民族が数ヶ月の路程を40年かけざるを得なかったように、回り道や遠回りさえも受け入れて忍耐しながら今日まで来たけれど、それぞれにしてみれば気の遠くなるような道のりが未だ目の前に延々と続いており、御父母様に手が届くに到るのかと不安すら覚える。しかし立ち止まるなら私はサタンの子だと言っているようなもので、たとえ遅々たる歩みであったとしても一歩一歩前進する必要がある。神様に取っても人類に取っても人間魂の生死に係わる御父母様の存在を受け入れているか否かが最重要課題であって、それ故に全体摂理があり65億の人類を伝道している。人類総祝福化を標榜しながら最後の全体摂理が進められている。私個人や家庭の救いの段階がどうなのかも大切には違いないが、今の時に刻むべき最重要課題は全体祝福だ。それこそが今の御父母様の想いであり願いだ。己が無力と罪に思い悩む時を刻むのではなく、御父母様のその想いを先ず受け取り行動への意志を差し出すことのほうが私達に取っては大切だ。

時の霊

時間軸が無かったら空間は有り得ない。時間が流れればこそ三次元空間は存在できる。ただ単純に物理的に考えて、仮に時間の流れない三次元世界があるとして、私がこの三次元世界を認識するとは関係性を持つということであり、関係性を持つ為には瞬時であったとしても時間を経ない限りは関係性は持てない。関係性を持てず認識に至らない存在を存在ということはできない。だから時間があって空間がある。人は生きると言う認識を持つ時、時間の流れと空間の広がりの中に生きる自分を意識しているけれど、時間は均等に流れるものであり空間は均等に広がっているものと思い込んでいる。だからそこにどう意志を働かせるかで、時間の流れ方も変わり、それが変われば空間の広がり方も変わるものであることが理解できない。たまに断食の条件でも立てれば時間の流れ方は長くなる。それは主観的な感じ方であって、客観的には同じ時間の流れだと言えば誰もが納得するだろう。しかし客観的なものは判断材料ではあるけれど、生きているのは主観のなかで生きている。時間を長く感じるか短いかが重要だと言っている訳ではなく、時代霊という時の本質を受け入れて生きているかどうかが問われていると言いたいのだ。過去から未来へと自ずと時は流れていくように思える。一瞬たりとて立ち止まることは無い。しかしそこに意志が働いていることを見落としている。流れているのではなく時の霊が時を一つ一つ積み重ねている。流れているのではなく、意志を持って積み重ねている。積み重ねる一つ一つの時に織り込まれ、刻み込められるものを提供している。時を生きるとは、一瞬一瞬に私と言う人間理想の部品的要素を織り込み、刻み込んでいる。ひと月や一年と言う段階毎に、織り込んだものが、刻み込まれたものが、創造としての内的霊的一つの形を為していく。

2010年3月2日火曜日

恐れに対する考察

私は一体何を恐れているのだろうか。私は神様を恐れているのかと問うてみる。神様が私の親であるという確信と、絶対的な愛の方であるという確信から、神様を恐れるが故に善行を為したりみ旨の道を歩んでいると言うことは自分には当てはまらない。確かに恐ろしい神様ではあるのかも知れないが、恐れてはいない。思い描けるあらゆる仕打ちが私に襲ってくるとしても、そこに愛の神様であり親なる神様への信頼は泣き叫ぶ中にも失うことは無いだろう。アブラハムに対する子イサクの信頼は、献祭という場で証明されたけれど、私に限って言えば、神に対する信頼を見せろと敢えてその場を用意する神様のはずはないのであって、その場をサタンが用意し神様がそれを許さざるを得ないのなら、立派に証明して見せたい。そう言い切ることが神様を親であり絶対的愛の方だと認めることだ。それでは私は他人を恐れているのかと問うてみる。確かに他人の目ばかりを気にしながら生きてきた。神の目を恐れず他人の目を恐れるというのは、確かに恥を最大の恐れとする日本人の在り様を言い表している。人がどう思っているかがいつも最大の関心事であり、周りを気にしながら生きることで自分自身を蔑ろにしている。堕落的自己を否定する事と、自分を適当に扱う事とは違う。私がそうであったように日本食口の多くはその事に気付いていない。他人の目を気にしながら、他人を恐れながら生きることは信仰の本質からは、ずれている。私自身が周りの人を自分の目で判断しているから周りも判断しているに違いないと思えばこそ、他人の目が恐いのだ。私は彼らについて判断もしないし、彼らが私をどう思っているかも気にするべきではない。では私は私自身を恐れているのかと問うてみる。本来、恐れるべきは私自身なのだ。私は御父母様の前に如何様にも報告できるだろう。皆の前ではどのような演技もし、表情も浮かべてそれらしく振舞うことだってできる。しかし、自分だけはどうにも誤魔化すことはできない。何を言った、何をした、何を思った、何を感じた、何をすべきで何をすべきでなかったか、私が私の全てを分析し判断する。この私から私は逃れることができない。だから恐れるべきは他の如何なる存在でもない、自分自身なのだ。