2010年3月26日金曜日

宇宙の春

この地上で歩みながら多くの恵みを受け取っている。しかし受けている恵みを認識できずにいる。空気を吸うことが当たり前のように、受ける恵みを当然の事とされ意識上に置かれはしない。外界にある全ては私の為に神様が差し出して下さったものだ。外界に起こる全ての事柄は私の気付きの材料としての学びの出来事だ。外界は神様が自分の息子娘に良かれと思い差し出された一つ一つであり、その一つ一つは子を想う愛おしい想いに満ち満ちている。しかし親の想いは子に通じてはいない。それどころか自分に親である神様が存在することすら気付いていない。神様から見るなら、与えれば与えるほど子供は背を向けて遠ざかっていくようだ。善悪の道理が愛の道理とは受け取れず、自分を裁くものとしか受け取れない。愛の中に自分が生かされていると思えるのではなく、裁きの目に自分は曝されていると感じている。愛に包まれて生きるべき私が、愛の道理を遠ざけ自分の偏見の道理を当てはめて生きる。目の前のものは、関心がなければあってないものであり、自分の欲の対象にだけ関心を向けようとする。身の回りに起こる様々な事柄も、必要とされる愛の道理ゆえに起こるのではなく、自分の思うように生きる自分に対する向かい風の抵抗でしかない。ラッキー、アンラッキーで全ての事柄を分けてしまっている。そこに真の愛の道理は働かない。別の道理を当てはめ、別の世界に生きている。今、堕落の道理に馴らされた魂が、真の父母に拠って魂の変革がなされようとしている。愛を愛として受け取れる本然の魂の在り様に変革される。外界と言う宇宙に神様の愛が満ち溢れ、内界との隔たりを築く必要はもはやなくなる。御父母様が勝利されたことで外界は宇宙の春を迎えようとしている。外界である宇宙と内界である魂の垣根が取り払われ、宇宙の春を私の春として謳歌し、宇宙の喜びが私の喜びとなる。

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