2010年3月23日火曜日

今日の想い 157(再度の公開)

重い日記を書き続け、書いたものを公開し続ける。もしもこのブログに目を通し続ける者があるならば、得体の知れない不気味な魂を覗き続けることになる。誰かは見ていてくれるのかも知らんと思っていたけれど、良く読み直してみれば私という混沌に引き込むことになる。食口の中にはこんな次元の低い者もいて、共感を得ながらも頭を掻き毟る状況から抜け出すために、内的知恵をそれぞれが引き出せればいいのかとも思うが、教会用語で言うところの基準が立っている食口に取っては無駄に回り道を勧めることになるのかも知れない。それ以前に頭を混乱させるのではと思ったから一時公開をストップしたけれど、考え直して敢えて公開することにした。せめて御父母様を慕い侍る意志を持つまでに繋げなければ、途中で投げ出したらサタンに加担したことになってしまうだろう。私としては自分と言う存在をそれ程変わった存在とは思っていない。家族をはじめ周りに集う者達も私の事をごくごく普通の人間であり教会食口だと思っているはずだ。しかし自分が内面に目を向け魂の在り様を見るならば、どろどろしたもので溢れかえっている。周りの人間を見ながら、ざっくりとした魂様相しか捉えることしかできないから、それぞれが百様の複雑感情を見せながら複雑極まりない魂の在り様を為していることには気付かない。その実体をあからさまに曝され、周りのものがそれを見るとするなら、堕落人間は共同生活をすることはできない。中間霊界のように、辛うじて似たもの同士が集まって集落をつくり生活する以外ないだろう。それさえもお互いの間に距離を置き、授受し合って助け合う程の関係には至らない。せめて自分の魂の在り様を直視し、それを自覚した者としての歩みとすべきだ。それがなくて御父様御父様と呼ばわる者は偽り者だとさえ思う。所詮、もがいているとしても未だ堕落の血統圏から抜け出せずに居る。小善を行い少しの実績を捧げたとしても、そこに自分と言う堕落存在の自覚がなかったなら、御父様と呼べる資格はない。否定的文章の多い堕落圏からの発信から、天に向かう意志を視る肯定的文章を発信できるよう、毎日の戦いは続けられる。

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