2010年3月14日日曜日
現状に想う
あくまで正分合であって、正反合ではない。宇宙の創造過程にあっても常に正分合作用が創造の為のプロセスだった。陽と陰、主体と対象に分けられたものが授受作用を為して新しい創造としての合一体となる。私は創造過程の如何なる段階であれ、繰り広げられる授受作用が思うように簡単で、生易しいものであったとは思わない。内的霊的創造であれ外的肉的創造であれ、主体と対象それぞれの生命を削りながらぶつかりながら一体となって創り上げられた宇宙創造過程であったはずだ。堕落してカインとアベルに分けられ、カインはアベルを立てることで一体化を願われた訳だが、宇宙の創造過程に於いても、どちらかが主体に立ち、片方が対象に立つのは同じことで、おそらく兄の位置が主体であり、弟の位置が対象という本来の位置関係が働いて為されたことなのだと思う。堕落したから善の表示体、悪の表示体として分離せざるを得なかったとしても、もし堕落しなかったらカインとアベルは分けられることは無かったのだろうか。それはあり得ないと思うし、兄と弟にやはり分けられて氏族的なものとしての創造が為されるための一体化が要求されただろう。そしてその一体化は決して生易しいものでは無いはずだ。アダムとエバが堕落しなかったらその後の事柄はすべてうまくいったかのような理解をしているけれど、決してそうではない。勿論サタンの介入は許さなかったとしても、創造の為の一体化の道のりはそれなりに険しいと思うのが当たり前の感覚に違いない。御家庭の心配を誰もがしているが、一体化されて新たな次元の段階に向かわれる為には避けては通れない事なのだと思う。それは決して我々が考えるような堕落的なものではないだろうし、極と極までに別れられたように思われるとしても、真の家庭の真髄を必ず見せられて、我々の想いの寄らない天的一体化の化学反応を示されると私は強く信じて疑わない。或る意味、私達は真の家庭の現状の中に学ぶべきことを見せられている。中心者が右と言えば右を向き、左と言えば左を向いてきたけれど、兄弟姉妹がひとつの心霊段階を超えた今、中心者を神の位置に置かず兄の位置に置いて、ちゃんと物言う対象であり物言う弟となるのでなければ、中心者の言葉に対して有無を言えない立場は本当の一体化を標榜してはいない。
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