2010年3月4日木曜日

時の霊

時間軸が無かったら空間は有り得ない。時間が流れればこそ三次元空間は存在できる。ただ単純に物理的に考えて、仮に時間の流れない三次元世界があるとして、私がこの三次元世界を認識するとは関係性を持つということであり、関係性を持つ為には瞬時であったとしても時間を経ない限りは関係性は持てない。関係性を持てず認識に至らない存在を存在ということはできない。だから時間があって空間がある。人は生きると言う認識を持つ時、時間の流れと空間の広がりの中に生きる自分を意識しているけれど、時間は均等に流れるものであり空間は均等に広がっているものと思い込んでいる。だからそこにどう意志を働かせるかで、時間の流れ方も変わり、それが変われば空間の広がり方も変わるものであることが理解できない。たまに断食の条件でも立てれば時間の流れ方は長くなる。それは主観的な感じ方であって、客観的には同じ時間の流れだと言えば誰もが納得するだろう。しかし客観的なものは判断材料ではあるけれど、生きているのは主観のなかで生きている。時間を長く感じるか短いかが重要だと言っている訳ではなく、時代霊という時の本質を受け入れて生きているかどうかが問われていると言いたいのだ。過去から未来へと自ずと時は流れていくように思える。一瞬たりとて立ち止まることは無い。しかしそこに意志が働いていることを見落としている。流れているのではなく時の霊が時を一つ一つ積み重ねている。流れているのではなく、意志を持って積み重ねている。積み重ねる一つ一つの時に織り込まれ、刻み込められるものを提供している。時を生きるとは、一瞬一瞬に私と言う人間理想の部品的要素を織り込み、刻み込んでいる。ひと月や一年と言う段階毎に、織り込んだものが、刻み込まれたものが、創造としての内的霊的一つの形を為していく。

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