2010年3月5日金曜日

希望

結局は希望を持ち続ける者が最後まで残る。人間堕落というおぞましい事件が起きても、復帰の摂理が不可能に近いという現実があっても、更に中心人物の失敗がうず高く積まれ続けていても、神様は諦めることなく復帰に対する希望を繋ぎ続けた。キリストの到来という神と人類の積年の望みを、十字架によって叩きつけられ打ち砕かれた時でさえも、それでも希望を仰ぐ意志を捨てられることは無かった。それ故に宇宙は存在し続けている。それ故に私は存在している。存在して、今こうして真の御父母様を仰ぎ見ている。生きてこの眼に外界を映しながらそれは神様が私を通して見ているのであり、生きて地上的経験を受け取りながらそれは神様が私を通して体感しておられる。私を生きるという過程を経ながら、創造歴史の始点から理想を持ち続け、希望を繋ぎ続けた神様の愛という名の復帰に対する執念が、生きる過程の背後に流れている。愛という名の叫びがその流れの中から聞こえてくる。生きて神様を実感するとはそういうことだ。神様が私の中で働いておられる。私を通して涙を流し、私を通して憤怒される神様が、私の中で生きておられる。私が希望を持ち続けることを諦めれば、私に関する未来の事柄が消え失せるだけではなく、私の中に生きておられる神様が創造歴史以来繋ぎ続けてきた理想や希望を失うことになる。親の愛が子供の数で割り算されることが有り得ないように、私に願われた神様の理想や希望が他の誰かの理想や希望に取って変えられるものではない。私は私でしか叶えられない神様の熱い想いを背負って生きている。年老いた親なる神様を背中に背負って生きている。どれ程遠い道のりであっても、けっして希望を捨ててはならないのだ。

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