2010年3月29日月曜日

絶対信仰を考える

私の理想であり希望であるまだ見ぬ事実。その事実への確信をゆるぎないものとする。それこそが絶対信仰とは言えないだろうか。であれば絶対信仰の基準とひとつになれば、未来を既に手中に収めていることになる。絶対信仰は過去や一瞬毎に過去となっていく現在には主管されない。御父様を信じお父様が語られたみ言を信じるのはその通りだけれど、信じることの本質を失ってはいないだろうか。それとなく御父様の輪郭のみを思い描き、み言の表面をなぞらえているだけなら信仰の本質に迫ってはいない。信仰が生きた言葉となる為には理想であり希望となる事柄が事実に繋がる過程を見なければならない。自分と言う存在が本当にその過程上に生きているかを問うべきだろう。御父様という理想を頂き、全体であれ家庭であれ或いは個人であれ、復帰にしろ創造にしろそれぞれの希望を抱きながら時を刻んでいるけれど、本当にその理想を標榜し、その希望への飽くなき熱望を保持し続けて時を積み重ねているかと問われれば自信はない。理想はあるけれど到達できないものであり、希望はあるけれど夢は夢でしかないだろうと言う立場なら、それは理想でもなく希望でもない。まだ見ぬ自分という理想実体、希望の実体を未来に見据えることとは、それに応じた決意と覚悟が取引として自分にあるかだ。理想と希望を自分の言葉として勝ち取ることは、必然的に決意と覚悟がその言葉の裏書として要求される。理想と希望が高ければ高いほど、決意と覚悟は深くなる。決意と覚悟が自分にないなら、絶対信仰の基準と一つになることは出来ない。

0 件のコメント: