2010年3月10日水曜日

今日の想い 150

堕落世界や堕落存在の全てを、完全に御破算にする選択肢はあったのだろうか。あるのはあったとしても神様がその選択を今まで取らなかっただけなのだろうか。堕落して神に反旗を翻す存在になってしまっても、敢えてその存在を処分できない理由を原理は説明しているけれど、それを人情的に理解するにはなかなか無理がある。天のそう言った事情を理解するには、為に生き、犠牲の歩みを供えて見えてくる、心情として理解するとしか言いようが無い。自由を与えれば堕落の可能性があることはわかっておられた。堕落すればどれ程悲惨な神になられるかもわかっておられたはずだ。原理原則を創造された神様であるけれど、原理原則を創造することの意味は原理原則に生き、それに縛られることだ。即ち愛の道理としての原理原則のなかに生きることをわざわざ望まれたのだ。堕落した時点で既に失敗の神だというレッテルを堕落した側から貼ったとしても、神様御自身は失敗と言う言葉を持ってはおられない。愛の道理に失敗という概念は無い。堕落が起こればそこにより犠牲的な愛を投入される衝動があるのみで、堕落に係わった悪魔の存在ですら、より犠牲的な愛が必要とされる存在としか見ておられないに違いない。サタンはそれをよく知っており、敢えて挑戦的に愛の神様を試し続けてきたのだろう。愛の道理を否定できない弱みに付け込み、どこまでも試し続けるサタン側に対して、神様はひたすら打たれ続けることに専念されてこられた。絶対主であられ、万軍の主であられる神様が、愛ゆえに悲しみの神となることを自ら意志され、悲しみの神として敢えて呻吟し続けてこられた。今日までの復帰歴史を尋ねながら、愛の道理を貫いてこられた神様によって、創造当初の愛から今日の愛はそれ自体が犠牲の涙で染められている。真の愛と言える愛は、犠牲の涙がその本質なのだ。真の愛に生きる御父様も犠牲の涙が御父様の魂様相であり、御父様を慕って生きる統一の群れの魂も、犠牲の涙がその在り様となる。

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