2011年1月3日月曜日

今日の想い 239

教育の難しさ、とりわけ二世教育の難しさは教育の入り口にさえ入れずに悶々としている一世に主たる原因がある。まず子供に対するとき子に向かうべき愛としての教育であるべきなのに、祝福子女はこうあらねばならない、祝福を受けなければならないと言いながら子にしてみれば押し付けや足かせでしかないし、親からみれば自分が思うところの祝福子女としてのあるべき理想像へ向かわせる方法でしかない。一世である親自身が、押し付けられ足かせを嵌められてきたという思いが我知らず押し込められた意識の底にあって、子供に対して言葉を届け想いを届けようとしても、その意識の底にある愛として受け取れなかった感謝できない恨みが、届ける言葉を無機質にし、込める想いに愛溢れる潤い感を持たせられないでいる。勿論、個人としても全体としても蕩減路程としての歩みは内外共に困難を極めてきたことは事実だが、子の前に立つ前に、内的に消化しながら歩みを通して受け取った果実を私の魂の在り様として前面に押し出し子に対さなければ、消化しきれない恨みや想いがあからさまに子供に伝播する。表情に出るし態度に出るし、行動に出るし言葉に出る。そして子供の前に立って具体的に善き言葉を伝えようとするとき、語る言葉が自分になく伝える想いに熱が篭らないことに愕然とする。愛されていたなら受け取った多くの愛を子供に流すべく、惜しみない子への想いが溢れて注ぎ込めるはずなのに、実のところは御父母様から受け取ったはずの自分の中から、取り出して与える何ものも持ち合わせてはいなかったのだと思い知る。歩んで来た個人的復帰摂理と思って来たものは実は愛が関与する為の復帰摂理の基台摂理だったと思い知る。本当の意味で愛と名の付くものが直接的に関与されて出発するのは家庭を出発してからだ。苦労した基台摂理に疲れ果てて、家庭は出発したものの半惰性的に夫婦で一緒に生活し、半惰性的に子供を産み育てて生活に追われていく。知らない間に体だけは大きくなっていく子供を見ながら焦りを感じる。真の愛が関与すべき祝福家庭でありながら、この世的な家庭愛に留まったままでいる。外を走りながら万物復帰に明け暮れていた若い当時の歩み以上の内的霊的エネルギーが、実は家庭を出発してから本格的に必要とされる。愛の復帰の戦いは毎日の数字結果として表れないだけに、投入して投入して投入し続けなければならない。戦いは既に終ったのだと日没の余生に溜息をついている場合ではなく、家庭の中にあり子供を前にして本当の愛の戦いが繰り広げられている。

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