2011年1月25日火曜日

カインアベルを考える(2)

先祖や過去の功労の位置で優位に立って満足している食口であれば、み言葉を身を切られるような裁きの刃として受け取ることはないのだろう。購読している教会雑誌の、心情と愛に満ちた兄弟の体験や子女教育の素晴らしい証しが心に痛くて、ページをめくることですら決意と覚悟が必要な、そんな兄弟達の気持ちもわからないだろう。アベルとして優位に立っている食口が、カインの位置でもがいている食口の心情と内的な戦いを理解できないなら、多くのカインは自分には流れてこない愛の不毛に晒されたままで、去らざるを得ないのかも知れない。信仰はアベルの位置で立てることは容易であっても、カインの位置で立てることは多くの困難を伴う。カインが信仰を立てられなかったことが復帰歴史を延々と引き伸ばしてきたのはその通りだとしても、アベルの位置でカインの失敗を裁いて切り捨てる思いがひとかけらでもあるなら、アベルであっても神様の前に誇らしく顔を上げることはできない。兄弟が使う言葉の概念として、謙遜傲慢、感謝傲慢という言葉はないのかも知れないが、信仰的言い回しの中に優位に立った者の独りよがりや冷たさが、上のような言葉として垣間見える場合があって素直に賛美できないことがある。栄光のみに意識の光を充てようとし、自分に何の負い目も無いかのように影の部分に触れようとはせず見て見ぬふりをする限り、神様の心情からは少しずつ少しずつずれていってしまうのではないだろうか。そして結果としてカインを切り捨てることになるのではないだろうか。本当の意味で栄光を在天してはいないと私は思う。その積み重ねられたカインの恨が形となって表面化したのが、今の教会の様々な問題であるように思える。アベルカインの勝利はカインが神様に繋がるように、アベルがしっかりと間に立ってお膳立てしなければならない。祝福家庭は氏族と人類の前にアベルの位置にある。アベルとしての役目を果たすためにどれだけの深い知恵が私達に必要とされるだろうか。御父様が言われるように、彼らの位置に降りていって酒でも酌み交わし、不信仰と烙印されても敢えて降りていって彼らを消化し天に繋いでいく心意気がなかったら、頑なな独りよがりの、形に囚われた信仰であって、それが何の役に立つのだろうか。個人の救いで良しとする自分がいるなら、それは謙遜傲慢であって、信仰的で見栄えは良さそうだが個人主義の領域から出たことにはならず、それは救いとは違うものだし救いの本当の意味もわかってはいない。 

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