2011年1月9日日曜日

カインアベルを考える

この地上で堕落的習慣性に漬け込まれている者達であっても救いの手は差し伸べられるべきだ。もし私の中に彼らに対する哀れみの感情の一つもなく、はなから背を向けるのであれば、私はアベルの位置で正しくカインに向き合ってはいないと言う事だ。アベルの位置で彼らを救おうとするならカインの位置まで降りて行かなければならない。カインへの非難を強調するけれど、アベルがカインの位置まで降りて行き、カインの手を取って引き上げることをしなければカインは救われようがない。私は一方に於いてはカインの位置にあり、そしていま一方に於いてはアベルの位置にある。そしてカインの位置で正しくアベルに向き合ってこそアベルの位置にも立つことが出来る。アベルの存在が私のところまで降りてくれたから引き上げられていると言う観を持ってしっかりアベルと繋がり、アベルから引き継いだものを相続してカインに対する。地上の救いはメシアが肉体を持って地上に降りてこられたから救いがもたらされたのであって、私が御父母様に出会い天の血統に繋がれている事の背後に、莫大な天の犠牲が供えられていることを知的にも心情に於いても受け取らなければならない。この堕落世界を救うと言うなら、私達はカインの位置まで降りて行って彼らの手を携えて再び上って行かなければならない。氏族を救うと言うなら、彼らの僕の位置にまで降りて、彼らが屈服せざるを得ない立場を通過しながら、そうして初めて彼らが私に歯車を合わせてくれるのであり、聞く耳も持たない状況でどうして氏族復帰が有り得るだろうか。カインアベルという原理観が、私の中にあるカインアベル、即ち心と体の関係性に於いてはっきりと認識されずに、家庭に於ける歯車も、氏族に於ける歯車も、噛み合わせるどころか中心になる歯車さえ用意することができずにいる。世界の問題、教会の問題を傍観者的に取り上げ、カインだアベルだと言いつらっても、摂理に反する力に寄り添っているだけで天の心情圏外の存在でしかない。

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