2011年1月18日火曜日
今日の想い 248 (妻を見ながら)
冬の間、身体の悪い妻はいつもソファーの片隅に蹲って一日の大半を終える。食事の支度であるとか洗濯であるとか、そして売り上げの記帳や支払いのチェック書きなど、日常のやるべきことは少々体がきつくても遣り終えなければ気がすまない性格なのだが、それを終えると同じ位置で同じ体制で、寝るでもなく動くでもなく過ごしている。四年前に戴いた臓器はここ一年のうちに機能を大きく低下させ、医者からは早く透析の為の腹腔手術をするよう彼女に要求している。あの透析生活の辛さを味わうことへの本人の拒絶が祈りに込められ、ぎりぎりの状況ではあっても辛うじて日常を送る体調を維持している。去年の前半には国税局の監査で気を痛め、後半には帯状疱疹で身体を痛めて一年を終えた。今でも夜になると痛みが出るらしく完治した訳ではないが、それでも一時の地獄を思うと天国らしく、柔らかい妻の表情が今の私には何よりもありがたい。そんな身体の状況で明日の事はわからないし、ましてや半年先、一年先のことなどわかろうはずも無い。先々の事を憂いて沈んで暮らすより、今与えられている喜びを感謝して味わうことだ。今の彼女に取っては動けることが喜びであり、痛みに顔を歪めずに送れる日常が喜びなのだ。夫として共に喜んであげながら、感謝の想いに満たされた一瞬一瞬を積み重ねていくことが、今日の何よりの供え物だと思う。分相応と言う言葉があるように、周りを見比べて不平を言うのではなく、自分の人生を精一杯歩むことだけに集中すればいい。大きな願いがかけられているのはその通りだが、今の今大善を為せない私であることは認めて、だからといって目の前の小さな善行を否定すべきではないだろう。今日の、為に生きたい想いが小さな行動となって、ひとしずく、またひとしずく、対する相手の魂の水面に、そして社会という水面に落していくことで、愛の水の輪は確実に水面を広がって影響を与えていく。どんな状況であれ為に生きることは出来るし、為に生きることが生きる喜びなのだ。今日の柔らかい妻の表情は、感謝の気持ちを私に起こさせたことで、十分為に生きている。