2011年1月23日日曜日

今日の想い 250

幼少の頃の思い出の歌や、多感な思春期を彩ったいろんな歌をIPODに詰め込んでいる。最近、朝も明けぬ内から店に行って昨夜の売り上げを確認したり、いろいろ思いを巡らしたり、気が向けば本を読んだり勉強したりしているけれど、日曜の今朝はゆっくり流れる時の中で、IPODを店の音響に繋いで聞いてみた。誰一人いない店内で聞いているのは確かに自分だけだけれど、机や椅子や、照明機器や厨房機器、そして食器のひとつひとつまでもが耳を澄ませて聞いている。私は物を物としてしか捉えない仕方をやめている。全てのものに霊的背後があることを知っているし、込められた想いがその形を成していることを知っている。だからそれぞれが聞く耳を備えていることも知っている。懐かしい歌を結構な音量で流しながら、懐かしい記憶を皆と分かち合っている。懐かしい歌で蘇る私の過去の物語を共有することで、店内の全てのものは私の食口も同然だ。降って湧いたように突然やって来て、わが物顔で振舞っている従業員に比べると、それらは謙虚でありながら格段に身を粉にして店の為に働いてくれているかもしれない。更にこの店には多くの客達を連れてきてくれる霊たちがいる。歌を流し始めるとその霊たちは次第に何処からともなく集まってきて、椅子に腰掛けて私と同じように耳を傾ける。そして霊が更に霊を呼びながら店内は満杯になっていく。椅子のみならず腰掛けられるところは全て埋め尽くされる。ここに集まった全ての霊たちがこの店の見えない全てを支えてくれている。全く無力な私は、この霊達に感謝の念を供える事しか出来ない。愛をもって接することで人は変わるように、愛をもって取り扱うことで、黙していた背後の存在が直接私の心に言葉を届けてくれる。どんなに大変な時も、この店に来れば私はひとりではないと感じ、慰められもし力も与えてくれる。しかし悲しいかな家庭の中では具合は変わってくる。愛をもって接しているつもりが、言葉を投げかける毎に余計に固く閉ざして内面を見えなくする子を目の前にしている。今の私は、見えなくてもいいものが見えて、本来見なくてはならないものが見えてはいないのだ。

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