2011年1月15日土曜日

今日の想い 245 (日常の中の神様)

神様を体験するということが、日常に起こり得ない何か特別な体験であることを期待しているけれど、奇跡のような出来事が目の前に起こったとしてもそれは私をあっと驚かせるだけのことで、神様を全く否定している無神論者ならまだしも、神様を信じる者にそんな接し方はされない。神様は一瞬たりとも私から離れること無く、常に働きかけておられる。日常の全ての事柄に働きかけ、私の内なる魂に生起する思考感情意志の全てに働きかけておられる。昼の陽光の中に働いておられ、夜の印象の中に働いておられる。意識する活動の中に働いておられ、無意識の安らぎの中に働いておられる。呼吸の一つ一つに働いておられ、生命を維持する生命活動の中に働いておられる。特別な体験を期待するのではなく、意識する必要のないほどの毎日の事柄が如何に特別であるかを知らなければならない。何気ない日常を送ることに、どれほどの愛と犠牲の支えがその基になっているかを知れば知るほどに、居た堪れないほどの申し訳ない思いと感謝の思いが私の中心的気分として備わる。だから私が本来的位置にたっているかどうかの判断は、謙虚さと感謝がどれほど私の中に備わっているかどうかによるだろう。人間は言葉を道具とし仲介として内的霊的な遣り取りを為している。内面に浮かんでは消え、消えては浮かぶ数え切れない思いや判断や気分を、言葉をもって存在させている。外的なこととして訓読するにも言葉を使い、読書するにも言葉を使い、人との遣り取りも言葉を使って、それらの言葉から自分の言葉として受容できる言葉を、言葉の本質として自分の内面に落とし込んでいる。私がどういう言葉を持っているかが私がどういう霊的存在なのかということだ。日常の中に神様の愛と犠牲が供えられているにもかかわらず、それを知り得ないということは私の中にそれを知り得る言葉を持ち合わせていないと言う事が言える。私の中に神霊溢れる言葉を備えることが霊的な感性を備えたと言うことができるし、それによって見聞きし体験する事柄の中に今までは見えず気付かなかった多くを受け取れるようになる。外面に於いては宇宙や全ての万物、自然様相を通して語りかける言葉を聴き、内面に於いては御父様の心情を私の魂の奥から届けられる言葉で受け取れる。