2011年1月31日月曜日

今日の想い 254

私には確かに驕りがあった。立派な家庭を築き、立派な子供に育てられるという驕りがあった。この驕りが、喰い込んで抜けない釣り針のように、家庭のなかで膿み子供の魂に影響を与えている。私の何が、そんないわれもない驕りをもたらしたのか。驕りだと気付いていなかったから驕りであって、それは祝福家庭だからという一言が何かおまじないでもあるかのように私の中に気分として響いていて、安心しきっていたと言うことだろう。信仰と無責任とを履き違えることが往々にしてある。根拠のない膨大な目標を掲げて、神様がおられ霊界が働くのであるから為せるという信仰的気分で望むのだけれど、そこに責任という覚悟と決意が供えられていないからものの見事に崩れて失敗する。信仰だと思っていたことが実はただの無責任であったと言うことだ。全体として摂理の願いを受けて来て、手がけた多くが失敗に終わったのもそこにあると思っている。内的霊的に成長せず、いつまでも責任の自覚もない幼いままで御父様にぶら下がってきた。その幼い体質が私にもしっかり浸み込んでいる。祝福家庭だという意味が、ただのおまじないのように捉えてきたから、実体のない気分で夢を見続けてしまって今そのツケの大きさに溜息をついている。しかし目覚めて責任の大きさに気付いたと言うことが、御父様の勝利圏を相続できる基準に私はやっと追い着いたのだと認識すべきだ。その認識する位置で責任の重さに押しつぶされるのではなく、この責任を引き受けるほどに信頼されているし、消化してこなせるから与えられていると思うのが正しい信仰観だろう。責任の重さに釣り合う決意と覚悟を供えながら、しっかりと前を見据えて一歩一歩を踏み出していく。天基二年、天一国11年目の神の日を迎えようとしている。御父様は今まで以上に激しい年になると話されている。その言葉を受けて不安な気分に主管されるのではなく、事に対して如何なる決意と覚悟も供えるという腹をもつことを御父様は願っておられ、その言葉の中に含めておられる。激しい年であればこそ祝福と恵みの年となる。必ずそうなる。このブログ日記を目にして下さる皆様の天基新年の御健闘をお祈りいたします。今年もありがとうございました。

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