2011年1月3日月曜日
今日の想い 238
人間は地上界と霊界両方に足をかけて存在しているけれど、外的地上的なものに重心を置いて生きているのか内的霊的なものに重心を置いて生きているのか、その違いには天と地の差がある。たとえ私は信仰を持っていると自覚しているとしても、信仰の在り様にも外的な信仰の在り様と内的な信仰の在り様があって、多くの食口は外的な信仰の在り様に留まったままでいる場合が多い。絶対信仰という言葉を受けて、信仰と絶対信仰の違いが何なのかどうも曖昧で良くわかっていないと思うのであれば、信仰が外的形式的、更にこの世的であるということで、それは本当の信仰とは言えないだろう。ましてや周りの食口を見ながら、それに合わせていれば信仰生活をしているような気分で安心だなどと言うのであれば、本当の信仰とは程遠い。絶対信仰は表面的な信仰気分でもなく、他と比較して自分が劣ることに対する恐れでもなく、あくまで主体的であり能動的なものだ。そういった絶対信仰であってこそ私は精神に於いて自由を得ることが出来る。自由を得て信仰に至るのではなく、絶対信仰を供えてこそ私は自由になれるし自由という言葉の意味を知る。外的地上的なものに重心を置いて生活するということは、五感で受け取ることや目の前に起こる事柄を情報として判断し、皮膚や感覚組織で反射させているから輪郭情報以上の本質を知ることは無い。内的霊的なものに重心を置いて生活すれば、感覚情報や体験を皮膚や感覚組織を通過させ私の心魂に反射させることで本質を問おうとするから、ただ流されるままに毎日を送るというような内的霊的に目隠しをしたままの生活とは異なるものとなる。内的霊的なものに重心を置いて神霊溢れる歩みをすれば、風が私に気付きを与え、草花が私に微笑み、自然が私に語りかけてくる。更に流れる時でさえ太古の記憶を運びながら、生きて働く時の霊として今を読み解く叡智を授けてくれる。
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