2011年1月29日土曜日

今日の想い 252

横にいる妻に尋ねた。もともと料理が上手な母と苦手な母とでは子供はどちらがより善く成長するか。妻は即座に答えた。料理好きな母であれば家庭も円満になるし子供も善く成長する。私は少し微笑んで頭を振った。もともと料理好きであれば何の苦もなく日毎の料理を作るが、苦手であれば子供の為にという想いを込めなかったら作れない。子供は物を食して育つのではなく、込められた親の想いと愛を食して育つ。料理を放棄すれば話は別だが、作り続けることが前提であれば苦手であるとか家計が困難だとか、何らかの負の要素を補おうとすると想いを込めやすい。したがって子はその想いを受けて善く育つ。妻はふーんと頷いたけれど後に続く言葉はなかった。何かにつけて妻は外的であり私は内的だ。どちらが正しくどちらが間違っているかと問うことはできない。在り様としてそうなのだ。しかし一体化する為にどちらが中心になるべきかと問うなら内的なものが中心であるべきだ。妻は私が子供の為に条件を立てていると思っている。条件という言葉をどう捉えるかにもよるけれど、私は条件と思って行動している訳ではない。言葉をかけても響かず通じず、子供への想いだけが空回りしているようで何かせずにはおれないのだ。褒められることでも自慢できることでも何でもない。条件と言うような高尚なことではなく、親としての想いが駆り立てるだけのことだ。私は思考がより内的ではあるけれど愛があるかどうかは別問題だ。彼女と比べて愛が備わっているかどうかというと疑わしい。しかし明らかに他の兄弟と比べて愛が足りないことはわかっている。愛の足りなさは目の前の子供を見れば否が応でも突きつけられる。自分には子供に影響を与えるほどの愛がない。子供に申し訳なく先祖に申し訳なく、そして何よりも御父様に本当に申し訳ない。

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