2011年1月30日日曜日

今日の想い 253

過去の記憶を尋ねる時、虚ろではあってもその時その時の情景を思い出せれば、情景に伴う感情だけははっきりと蘇る。思い出せても思い出せなくても、感情体験したひとつひとつが私の宝であり全てであり、生きて背負ってきた私の霊界に鏤められている。霊界ではそのひとつひとつを仲間と分かち合い、誇って自慢もし、賛美して喜び合うカテゴリーであると共に、それらが霊界生活の環境圏を決めもする。為に生き、愛する体験は、一滴も無駄にされずに霊界の環境圏となって、私に愛の光を照らし愛の呼吸を可能にさせる。勿論思い出すのさえ打ち沈む感情体験も少なくはないだろう。しかし肉体を持って生活している特権は、恨みとして存在する負の感情体験さえも愛と赦しで消化しながら感謝の体験に転換できることにある。生きているうちに感情清算して、過ぎてみれば全ては愛であったと笑みを浮かべて言えるのであれば、その勝利した感情体験は霊的環境圏を見事に変えてくれる。内的な勝利内容が私個人に関わるのみならず、周囲に愛の波紋を起こさせる全体的進化をもたらしていく。私の勝利が全体の勝利でもあり、全体の勝利が勝利の恩恵として私にももたらされると言うことだ。その意味で天国はお邪魔して入るところではなく、愛をもって造り住むところが天国だ。恨み多い地上地獄であったとしても、真の父母の愛の勝利圏で包み込み、恨みや反感を剥き出しにしながら私に対する社会存在を、真の愛で接して感化しようとするなら、彼らの多くは既に魂の奥から真の愛が押し寄せていることを感じていて閉ざした魂を開かざるをえないだろう。私達の全ての記憶や感情体験は、この世の堕落的記憶や堕落的感情体験とは根本が違っている。真の父母と因縁着けられており真の愛に起因している。この世的なものを全て流れて消え去る偽りの愛に起因していると断定することは出来ないにしても、真の父母に繋げられない限りいつ消え去るか知れない不安定さが残る。このレストランに来る多くの常連客は、本人も無意識のうちに引き付けられて因縁を結ぼうとしている。昨日も常時店にはいない私をやっとつかまえて、何を言われるのかと思ったら何としてでも手渡したかったとギフトをよこす。私が取り成すことで彼らは真の父母と因縁を結ぶ。それが彼らの背後にある霊達の新しい天地に住まう存在の足がかりになる。

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