2011年1月4日火曜日

今日の想い 240

全ての部屋に定点カメラでもつけて一日や一週間がどのように送られているのか確認するように、時には客観的立場で親の立場で子供にどう接しているか、子供は親にどう接しているのか、夫婦互いにどう接しているのか、見てみる必要があるのかもしれない。行動や言動にそして表情や雰囲気に、真の愛が関与した愛に満ちた家庭であると言えるのかどうか。子供が体を患ったり悩んでいたりすれば親が心配するのは当然であって、それはこの世の親であっても同じことだ。この世の家庭と違って祝福家庭としての親の在り様とはどういうものだろうか。私達は私達の親、即ち真の御父母様から親としての在り様を学ぶ以外ない。愛が数値で測れるものではなく、他の価値に置き換えられるものではないというところに、愛の何にも勝る愛たる所以があり、愛をより愛らしくするものがある。愛を測るように把握して与えるのであったり、愛を与えた結果を期待して与えるのであれば、それは真の愛とは言えないだろう。打算的なものは一切排除され、ただただ相手を想う衝動に委ねて与え続け想い続けることで善しとする。そこに御父様から流れてくる真の愛は生き続けるはずだ。真の愛の流れの只中に私は存在している。流れを堰き止める私ではなく、私の心情を通過点としながら無条件にひたすら与え続けること流し続けることでこそ真の愛は私に流し続けられ与え続けられて離れることは無い。私の位置で堰き止められるのであれば真の愛は私を避けて流れていく。親として子に対すれば与える何の言葉も持ち合わせていないことに気付く。しかしそれでも搾り取ってでも与え続け愛し続けようとするなら、必ず与える言葉を与えられ、語る言葉にも愛に満ちた想いがのせられる。愛が届けられてこそ頑なに閉ざした子供の魂は開かれ愛を吸収し、真の愛の流れの中に必ず身を寄せるようになる。祝福家庭としての親の在り様は、御父母様が無条件に私に与え続け子として想い続けておられるように、子に対しても無条件に与え続け想い続けることだ。与えるその根源が湧きいずる御父母様から来るものであることを実感し続けることだ。

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