2011年1月4日火曜日

妄想経済

共産主義経済の失敗は、経済生活に取り入れようとした政治的管理の仕組みが、そもそも経済生活に取って全く異質なものだと気付かなかったし、気付こうともしなかったことにある。経済という自主性の上に成り立つものに、政治的な管理を宛がえて自主性を否定するものはそぐわない。資本家の弊害を無くそうとして共同体に管理させようとしても、今度は共同体の弊害が起こったのであり、それを無くそうとして国家が管理すれば今度は国家の弊害が起こった。弊害が移行するのみならず弊害は益々大きくなっていった。現実的な自主性に代わって抽象的な全体の意見に傾倒するなら、それは経済生活の死を意味する。勿論自主性には個人であれ組織であれ責任が伴うのであり、大きな発展もあるけれどもリスクを過小認識することで後退する場合の結果責任も逃れられない。資本を個人から共同体や国家という全体に移行されることで、責任も全体が引き受けてくれると思うのは、全体が実体の無い妄想であるように妄想である。責任の引き受け場が無く、宙に浮いたままで誰も引き取らなければ、経済が成り立つはずがない。しかし共産主義経済だけが失敗した訳ではないだろう。資本主義経済も既にそのシステムに抜け穴があることを探し当てた泥棒達によって存分に弄ばれている。自然経済から貨幣経済に移り、更に貨幣経済から信用経済に移ってきた。そして今の金融経済から信用はすっかり影を薄め、資本を回せば回すほど根拠の無い数字に粉飾された資本として膨らみ、本来の実質成長のない空虚なバブル経済が浮いているだけだ。共産主義経済は管理を委ねた全体が妄想であったのに対して、資本主義経済は貨幣から信用、更に金融に移っていく過程で、遣り取りされるもの自体を実質の伴わない妄想に仕立て上げていった。今は妄想を遣り取りしながら経済生活を営んでいるというのが現実だ。しかし金融という妄想の化けの皮が剥がれると、一気に世界経済のネットワークで繋がれている全ての貨幣は、紙切れや実の無いプリントされた数値だけになる。しかし一部の者を除いてまだ妄想とはばれていない。ばれない間、どううまく遣り取りしながらみ旨に役立てるか。それはそれぞれの責任者に、そして兄弟一人一人にかかっている。

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