2011年9月8日木曜日
本当の自分探しとは
死後の世界、霊界があるのか無いのかは死んで見ないと分からない。だから死んだ後のことを心配する意味はなく、どうせ死ぬのだから待っていればいいし死んだらわかる。そう言って今を楽しく生きようとする人はたくさんいる。自分は有神論でもなく無神論でもないと言う。霊界があるという立場でもないし、かと言って死後の世界などないという唯物論の立場でもない。そういう曖昧な立場で自分を納得させているけれども、その物言い自体が神を否定し、霊界を否定した立場であることすら本人は気付かないでいる。存在するかしないかという存在認識が既に唯物的なものであって、自分なりに想像した神をいるとかいないとか、自分なりに捉えている霊界をあるとかないとか言っているだけのことだ。そうであれば余計に死んで見ないと分からないと開き直るのかも知れないが、そのような考えは全く無意味であり、ただの言葉の遊びに過ぎない。納得する説明がないから信じないのではなく、五感で受け取れるものしか信じていない。五感だけに頼ることを唯物的と言う。唯物的な考えをし唯物的な生活をし、霊的なもの精神的なものを考えもし受け取りもしなかった者は、死後霊界に参入することも出来ずに、身体のない欲界の渇きに半永久的に苦しむことになる。食べたいのに口がなく、光を感じたいのに目がない、そして安らぎの旋律を聞きたいのに耳もない、、、。死後、肉体を取り去られるとはそう言うことだ。肉体を取り去られ、さらに魂である感受体を取り去られ、それでも残るものを携えて霊界への門を潜る。自分の内面を深く訪ねて問うてみればいい。この肉体を失い、魂を失い、それでも残るものを私は集めているだろうか。宗教的に言うなら天に宝を積んでいるのだろうかと言うことだ。自分探しという言葉が流行った。しかし本当の自分探しをしようと思うなら私が魂の存在であり霊の存在でもあることを無視できない。三次元を超えた世界、霊界があるかないかで足踏みしている時代はとっくに過ぎた。霊性を備えて内的霊的無知を克服し、五感で受け取るもの以上に霊的なものを実感して受け取れる時代圏に既に入っている。
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