2011年9月24日土曜日

病を受けて考える

風邪を引いてから随分経つ。最初は身体が少しだるかっただけだが、一汗かくとそのだるさも抜けて元気になった気がした。しかし次の日になっても幾らか熱っぽく、身体が重く、頭痛も止まない。市販の風邪薬を三日続けて飲んでいるが、飲んで暫くは症状を抑えられるが、効果が切れるとやはり熱っぽく重く頭痛が止まない。動きは鈍るし、腰掛けると横になりたいし、重力に効し切れずに地に這い蹲りそうだ。食欲だけはあるから差ほど気にしている訳ではないが、やるべき事が思うようにはかどらず、そのツケがどんどん溜まっていく。病気から回復させる力をどう取り込むかと考えた時、元気になりたいという熱望だろうし、元気になるという意志だろう。熱望と意志が強いだけ回復力を取り込める。人間は肉体の健康な状態を知っているから病気になればわかるし、健康になろうとする。しかし人間は心魂に関しては健康な状態を知らないから、心魂が病に冒されていることを知らずに生きている。今の心魂をまともな状態だと思っている。救いが必要であるにもかかわらず、救いなど必要ないと思っている。心魂が病んでいるとは気付かないまでも、弱っているらしいと思える機会が与えられることがある。そのひとつが病に冒されるときだ。症状が重ければ重いほど、内面を掘り下げる度合いは大きくなる。風邪をひいたぐらいではそこまでに至ることはないだろうけれど、内的霊的観点から言えば心魂の病んだ堕落人間にとって疫病神は福之神だ。欲心を無にして疫病神に真摯に向き合えば、福之神に姿を変えて心魂の復活をもたらしてくれる。それは本然の、健全な心魂への憧れとして受け取るものだ。信仰者は常にこの憧れを内面に維持して、忘れてはならない。愛の人格者としてのイエス様の心魂への憧れ、真の愛の人格者としての御父様の心魂への憧れ、イエス様のようになりたい、御父様のようになりたいという内的霊的憧れを備えているだろうか。

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