2011年9月30日金曜日
雷の音を聞きながら
昨夜は一晩中ゴロゴロ鳴っていた。大気が飽和状態なのか呼吸をするにも息苦しいほどで、温度も差ほど高くないはずなのに蒸し暑く、なかなか眠れなくて地鳴りのような雷の音がずっと耳の奥に届いていた。雷の音を聞くたびに、御父様が話された自然の愛の営みのことを考える。陽電気と陰電気が交わる愛の営みが雷だという論理は理解できるけれど、どうも雷のオドロオドロしい印象が邪魔をして、雷鳴や稲光が愛の営みによる歓喜の表出だとはなかなか思えない。堕落人間だからそうで暗い印象しか抱けないのか、御父様には雷が陽陰一体の至上の歓喜として受け取られておられるのか、おそらくそうなのだろう。雷が鳴って降る雨は愛の営みのかけらであって、愛の営みのかけらで地上の万物は生命の恵みを得る。そのように人間も夫婦の愛の営みのかけらを放ち、それを霊的生命の雨として霊低存在は生命の恵みを得ている。本然の夫婦であれば愛の営みでひとつになれば霊的な光を放つらしい。一度、雷が鳴って雨が降る中で愛の営みをしてみることも必要だ、みたいなことも話されておられるけれど、愛の営みがことごとく堕落的地上的なものに引き下ろされてしまった地上の現実では、ただの形だけに拘っても、御父様が話され意図されることとは大きく異なっている。本然の愛の営みと、愛欲肉欲が絡まった営みとは形は似ても非なるものと思わなければならない。妻の体が或るとき急に百歳の体になっても、顔の肉が溶けてシャレコウベとなっても、それでも唯一の相対として抱きたいと思えるならその愛の営みは本物に近いのかも知れない。ひとつになって宇宙を抱いている抱擁感に酔えるなら、それは本物かも知れない。アダムとエバは自己の完成をまたずに、形だけの、即ち内容が伴わない愛の営みに走ってしまった。堕落性を引き継いでいる私達も堕落的なものがそこに混入されていて、その不純物故に光を放つことはない。浅い眠りの状態がしばらく続いて、雷の音を遠くの方に聞きながらそんなことを問うてみたり頷いてみたり、そのうちに意識は闇の向こうに遠ざかっていった。
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