2011年9月19日月曜日

協助を考える

死の門を通過して霊界に入ると、地上での関係性がそのままフリーズしてキープされる。地上で解かれるなら霊界に於いても解かれるけれど、霊界に於いては関係性を修復しようとしてもできない。霊人と地上人との関係性は地上人次第で変化しうるけれども、霊人どうしでは関係性は変化しない。或る霊人と何らかの繋がりがあった地上人だけが、その霊人の苦しみを和らげることができるのであって、本人や他の霊人によって霊的状況を変化させることはできない。地上人から霊人へは、地上人の想いが架け橋となって霊人へ繋げられ、そうして働きかけがなされる。想いの架け橋を渡し、情を供えて送ることで霊人の苦しみを和らげ、救いへの門が開かれていく。霊人が私の前に立っているかのように感じながら思考することは、彼らと会話していることであり、思考して内面に於ける理解や納得が得られるなら、霊人もまた理解や納得が得られる。地上に於いては形を為さない内的理解や納得であるように思えても、霊人達に取っては霊界の現実として霊的生命の光や空気や水を得ている。み言葉の訓読が私とその場にいる者だけの学習だと思っているけれど、藁をも掴む想いの多くの霊人達がその場に参席していることを忘れてはならない。彼らにとってみ言葉は霊的生命の必然要素に他ならないし、私が窓口となり私の訓読や祈りを通して彼らは復活する。霊界と地上界は手のひらの裏表のようなものであるが、かつては分厚い境界が存在し、相通ずるには困難を要したが、今は日毎にその距離を縮めている。先祖解怨、先祖祝福を為して、後は協助を待つと言うのであれば、その価値を理解してはいない。霊的存在の彼らと共に訓読し,共に祈り、共に活動するには私はどうあるべきか、み旨を共有し共に復活するには私はどうあるべきか、主体である私が解かない限り彼らは一歩たりとも前には進めない。協助と他力本願を混同している。

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