2011年9月4日日曜日

霊という言葉を理解する

堕落人間は堕落人間であって人間ではない。自分を人間だと思って疑わないから人間の尊厳を自分に当て嵌めようとするけれども、人間の形を備え、人間らしき魂の活動をしていても霊を供えた人間に到達してはいない。私が言葉を喋る動物、服を着た動物から区別され、人間へと向かう為には魂が霊を捉え、人間としての霊を所有して完成する必要がある。善行を為したなら天国へ行け、悪行を為したら地獄に行くというような、そんな単純な話ではなく、霊を所有し完成しなければ本来の天上世界に辿り着くことすらできない。祝福を受けて死の門を潜ればそこに祝福先祖が待っていて、天国の入り口まで手を引いて案内してくれる。祝福を受けたという証明書を入り口で差し出して天国の中に入って行くと、御父母様がそこに居られて迎えて下さる。そんな、絵本にでも書かれたようなイメージをもって信仰生活を送っているのだろうか。ほっとけば腐って化学分解する肉体を生命存在にしているのは、私に生命体が備わっているからだ。死の門を潜れば先ず肉体を放った生命体が、一つ残らず刻まれ記憶された一生の経験体験を蘇らす。生命体は完璧な記憶体だ。一生を振り返え終えて生命体を脱ぐと、次に記憶のエキスだけを抱えた魂体が魂の世界、欲界に赴く。欲界で肉体のない渇き、地上感覚のない渇きを味わい、その執着に応じた浄化を為していく。浄化の期間には相当量の期間を必要とする。そして初めて霊界へ参入していくのだが、天国に近い霊界の高みに近付けば近付くほど、私の正体が何なのかを問われることになる。霊を備え霊の存在を明確にされなければ、尊厳の光を受けて喜ばしく思うより、霊にもならない霊を焼き尽くされる苦痛に耐えかねて留まることは出来ないだろう。堕落人間が天使長ルーシェルの末裔であるとは、人間としての、即ち神様の息子娘としての霊すら備えず、ルーシェルの低次霊、マムシの霊を核にして魂を活動させ、生命を繋いできたと言うこともできる。だからどんなに善行を積んで良心的生活を為しても、それでも人間の霊を備えられて天国に入れる訳ではない。では、祝福さえ受ければ天上天国に入れる霊を備えることができるのか。

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