2011年9月6日火曜日
無意識圏内に本質は隠れている
地上生に於いて私達は二つの異なる時間帯を交互に送っている。一つは起きて意識を保持している時間帯と、他の一つは寝て無意識にいる時間帯との二つだ。起きている間は私の霊や魂は身体の中にあり、寝ると身体から離れている。身体から離れている間、起きて体験した事柄を時間を遡りながらバック体験している。起きている間は身体を鏡として意識的に体験しているけれど、寝ている間は映し出す鏡を現代人は用意できていない。だから意識的な体験はしていないが無意識に体験している。無意識に体験しているけれど、確実に良心に見る内的霊的な法を宛がわせながら霊界へ届けているのであり、それは良心に鑑みた体験を霊人体に刻んでいるとも言える。人間は良心の基準をもって宇宙法を地上的に受け取っているのであり、良心基準で生きたかどうかが宇宙に、すなわち霊界に存在できるかどうかを決定される。良心基準に合わせて生きるとは、家庭に於いては家庭が私であり、自分以上に家庭を愛し、国に於いては国が私であり、自分や家庭のこと以上に国を愛し、世界に於いては世界が私であり、自分や家庭や国のこと以上に世界を愛する。それで孝子、忠臣、聖人という、それぞれの次元の良心基準に一致した人間の位階の言葉が出てくる。自分の身体を自分として愛し大切にするように、小さくは周囲の環境圏も自分そのものであり、大きくはこの大宇宙も自分そのものであり、自分として愛し大切にする。良心に沿うて生きれば生きるほど、私と言う境界域を超えてより広範囲に国や世界を私として生きるように、良心に沿うて生きれば生きるほど、宇宙法であり天法が統べる縦的世界、霊界のより高みに飛翔して、天国に届く私を霊的に生きる。現代人が意識できない睡眠期間の出来事は、霧がかかって謎であるけれど、もし人類の霊性の活動ボタンが押されて無意識の向こうを意識的に見届けられるなら、誰も霊界は否定しないだろう。
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