2011年9月1日木曜日

今日の想い 362

教会の食口たちが印象として捉えられている彼らは純粋だという表現は、それを当て嵌めて納得すべきではないと思う。周りからもそう思われ、食口たち本人ですらそう思っているふしがあるが、今の世の中で人に対して使う、貴方は純粋だという表現には、きわめて相手を不憫に思う見方が伺える。信じやすく近視眼的で、騙されやすく思慮に欠ける、そんな印象で私達は見られている。見られている以上そう見せている部分があることを私達は認めなければならない。教会に反対する人達が口にする同じ言い種は、彼らは騙されていると言うものだが、騙されているように見られる自分がいると言うことだ。御父様や真の家庭に対する中傷や非難を、一方的に相手側だけの問題だと捉えているけれど、少なくとも半分以上は我々に非があるはずだ。私達は先ず、目を覚まさなければならない。やれと言われたからやる、であるなら永遠に私を中心としたみ旨は為せないし、周りから見てやらされ感は見え見えだ。やれと言われたことを自分の意志としてやりたいという、自分の想いから発するまでに昇華しなければ、それは騙されていると思われる範疇から抜け出すことはできないだろう。み旨としての全ての歩みに、一生の間やらされ感という深い霧に覆われ抜け出せないまま霊界に行くことになる。その場が本当に天国だと言えるだろうか。不憫に思われてきたことは仕方ないにしても、私達が自分を不憫な存在と信じ不憫な存在に落とし込めるべきではない。御父様はわざわざ不憫な者達を集めてみ旨を為そうとしておられるのではない。私達は目覚めて脱皮すべきだ。不憫でもなく、可哀想でもなく、弱者でもない。合わせて下手に温厚で優しく、人格者の振りを装う必要もない。み言葉は家庭を重要視しているけれど、私たちの思い描いている平和な家庭が理想家庭でもない。個人に於いてそうであるように、家庭の中にもありとあらゆる堕落的なものが入り込んでいる。不純物にまみれた汚物が家庭の底に沈殿しているのを、波風立てないように掻き回さないように当たり障りない距離を取って暮らすなら、それは偽善者ならず偽善家庭に他ならない。偽善夫婦より、髪を引っ張り合ってでもお互いに交わり合おうとする夫婦の方がまだ前進の余地は有る。私の中の偽善を偽善と見破る私を備えてこそ、み言葉によって芽を出した本当の私が活動する。

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