2011年9月28日水曜日

お金に対する価値認識

外的な価値、特に金銭的価値を把握できない兄弟が多い。万物復帰、献金摂理、教会ビジネス、とお金に関することが常について回ってきた。それほどにお金に関わってきたのなら、お金に関してプロ中のプロであるべきなのに、お金の価値認識が極めて浅い。浅すぎる。お金の価値も理解していないのに、お金が寄ってきて集まるはずがない。これまで手を変え品を変え、献金の願いに応えようと様々な商売に手を染めてきているが、ものになったビジネスは殆どないだろう。常に尻すぼりで終わり、結局重税をかけるように個人献金に頼らざるを得ないと言うことになる。霊的価値を深く掘り下げないまでも、せめてお金の内外の価値認識を持つべきだ。兄弟個人にしろ教会組織にしろ、お金を量的なものにだけ価値を認めようとしている。量的なものだけを追い求めようとするから、金が金を産むと言えるような価値を認識できずに、ザルですくい続けているようなものだ。お金には量的な価値と同時に質的な価値がある。量的価値はお金のより外的価値であり、質的価値はお金のより内的価値だ。精誠という言葉を知っておりよく使うにもかかわらず、手にしたお金が精誠が込められたものであるかどうかの認識はない。どんなお金も同じお金だと思っている。汗水たらして得たお金と盗んで手にしたお金、どちらもお金に違いはないからと、もし金銭を受け取られるとして御父様はどちらも受け取られるだろうか。年収一億の者の百万の献金と、年収二百万の百万の献金は質的に同じだと言えるだろうか。嫌々ながら差出す献金や思い入れもなく機械的に差出す献金と、公的に使っていただけて嬉しいと差出す献金が同じだと言えるだろうか。どういう質のお金を紡ぎ出したいか、遣り取りしたいかを問わず、量的なことだけを問うならば、お金に対しては極めて外的な扱いであり、或る意味唯物的と言ってもいい。共産主義を否定しながら、私達の無意識の中に唯物的なものが入り込んでいる。創造的発展的なものに使われるお金の誇りや喜び、熟慮の後の判断もなく垂れ流されるお金の悲哀や絶望。お金の声なき声に耳を傾ける共感も体験もなくて、お金は寄っても来ないし集まってもこない。お金に長く関わりながら、お金に対して何の学習もされず、ビジネスだと言いながらも未だに万物復帰感覚しかないことがどれほど恥ずかしいか。私も万物復帰の経験は長い。復帰されるお金は精誠が込められているが、批難覚悟で敢えて言うなら、そのお金は乞食的精誠だ。

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