2011年9月5日月曜日
霊という言葉を理解する (3)
外的地上的なものについては、私の所有かそうでないかは明らかなので、私の所有観念ははっきりしている。しかし内的霊的なものについては負債も含めて、私の所有観念には当てはまらないので、それを与えようとすることの意味がわからず、抱えたままでいてそれが執着だとは気付きもしない。赦しも、救いも、祝福も、それは内的霊的なものであるので、戴いて所有しながら霞と同じような扱いであって、所有しているという意識もなく、それを他と分かつことが与えることだという観念もない。もし御父様から祝福を返すように言われたとしても、何の事だか全くわからないだろう。霊界に行けば初めて、戴いた祝福の価値を明瞭に理解して腰を抜かすのだろうけれど、肉体を脱いでしまってからだと遅すぎる。心魂のステージに現れることは実感できても、その背後にある霊的な内容に対しては感性を持てないでいるからわからない。価値も分からず戴く実感もない者達に、尊い祝福を血肉を切り刻んでばら撒くように与えてこられた御父様だけれども、貰えるものなら何でも貰っておくべきだと、そんな乞食感覚で受け取ってしまう。戴いてはみたものの、価値が分からないからほったらかしのままで、相変わらず食べること生活することだけに意識を注いで生きている。尊い祝福の本来の価値を受け取ることが出来ずに、きっと祝福に預かったのだからそのうち好いことがあるだろう、ぐらいの感覚なら、欲しかったのは祝福ではなく打ち出の小槌だったと言うことになる。あまりにも食口を馬鹿にしたような言い方かも知れないが、御父様にすればどれほど悲しくも力の抜けることかと、せめてもの申し訳ない想いを馳せて、受け取れる内的霊的器を備えようと身悶えする私達であるべきだ。家庭基準の祝福の意味も価値も分からないまま、国家基準の祝福を戴き入籍手続きに入っている。器を備えた者と器を用意出来なかった者とに、食口であっても分かたれる時が来る。その意味で天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者達がそれを奪い取っている。地上的なことと比べ、霊的なことは逆説的であって、内的霊的所有観念は与えることを通して受け取る所有観念だ。
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