2011年9月27日火曜日

人は自分の霊界を背負って生きている

地上に於いては自己中心の欲望を正当化し開き直ることはできる。しかし自分という存在は地上にのみ生きる存在ではなく内的霊的に生きる存在であり、地上存在は影のようなものであって内的霊的存在こそが私自身だ。だから見るべきは欲望を満たし感覚的悦楽に浸る刹那の自己満足ではなく、私と言う霊界を何で創り、何で満たし、何が息づいているかということだ。私と言う霊界と言う表現は混乱させるかも知れないが、神様が天宙を創造されたように、私も私と言う天宙を創造している。地上存在としての私を創造すると同時に、内的霊的存在としての私という天を創造している。地上の言葉での説明では限界があり困難だが、霊界への門を潜ると言うことは私の内面にあったものが外面になる、裏返しになって私が内面に培ってきたものの中に住むことになる。だから感覚的肉体的に得たものに対する自己満足で良しとするのではなく、その動機や過程に於いて何を内面に混入させているかが問題だ。私達は知らないうちに多くの喜ばしくない侵入者を内面に取り込んでいる。囁く悪魔が私の内面に住んでおり、刹那の感覚的欲望を誘発させ堕落的な生活に拍車をかけている。侵入者が侵入者を呼び、本来私のエデンの園であるべき私と言う霊界にありとあらゆる霊的存在としての侵入者が我が物顔で居座っている。自己中心に生きる人間はその都度悪霊雑霊存在の類を内面に取り込み、自分の宮殿を荒れるに任せている。霊的感性が備わっていないので、幸か不幸かその実情を知らずに、囁く悪魔の言いなりに任せて地上の刹那の悦楽に浸っているけれど、そのツケから永遠に逃れることは出来ない。

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