2011年9月10日土曜日
親馬鹿
親が子供と結びついており、子供の救いと幸福に絶対的な責任感情を持つように、御父様は子女である我々の救いと幸福に絶対的責任感情をもっておられる。必ず救い、必ず幸福にするという、絶対決意(絶対意志)を持っておられるから、私達は必然として救いに至る。期間はかかるとしても必ず救いに至る。それが人類の真の父母の意味でもある。私達が心配すべきことは、私が救いに預かるかどうかではなく、親として悲痛なまでの責任感情を少しでも減らして差し上げ、私のことは心配しないで下さいと言える心情を捧げることができるかどうかだ。どれほど子として救いたくても、本人が親として認めたくないと言って顔を背け救いを受け取らないなら、親の悲痛な心情は計り知れないものがあるだろう。真の父は子に取っての救いが何であり幸福が何であるかを、子以上に知っている。それを気付いて欲しいのに顔を背けられれば親としてどれだけ辛いか。それは親になってみて初めてわかる。どれだけ子供が顔を背けても、どれだけ子供が反抗しても、親の元に戻ってくることをひたすら信じ、ひたすら待ち続ける。親馬鹿とよく言うけれど、子供に対するどこまでも信じて待つ意志や、子供を救いたい絶対的な責任感情が親馬鹿なのだろう。馬鹿になってこそ絶対的と言えるのだろう。有り得ないことが実現する為には絶対的な、即ち馬鹿になることでこそ、それが可能なのかも知れない。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準とひとつになると言う絶対を平易に理解するなら、思考を度外視し、感情を度外視しても信仰馬鹿に徹し、愛する馬鹿に徹し、服従する馬鹿に徹することなのだろう。
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