2011年9月20日火曜日
今日の想い 364
原理講義を受けて真理を悟ったかのように思えるけれど、それはただの気分でしかない。御父様に帰依して信仰に重心を置きながら生きているようだけれど、私の信仰が本物かどうかさえ分からない。結局、全てを分かったようなつもりで生きているけれど、何も分かってはいないと言うことだ。今日は辛うじて信仰を立てて生きてきたようだけれど、明日にはどうなるかさえ分からない。私の信仰を揺るがすほどの状況に会わなかっただけであるのに、今日には今日の信仰を立てたと誤解している。その私が他をとやかく評価したり批判したりできる立場ではない。溢れるほどのみ言葉を受けてきても、どれほど御父様御父様と呼びかけても、今までいたずらに時を過ごしたかのように、未だに揺れ動き、位置を定められず、さまよう自分がいる。あたかも御父母様の吐息圏内で同じ空気を吸い、同じ光を浴び、御父母様の愛を糧として存在しているようだけれど、それは幻想に過ぎないのではないかと疑ってみたことがあるだろうか。現実は堕落圏の底に息衝きながら、夢心地の幻想に揺らめいているだけなのではないだろうか。私の前には御父様が立っておられる。御父様を前にした私は、過去をひたすら呼び戻しながら、あれもしました、これもしましたと誇れるものを一つ残らず報告している。誇れる報告が尽きると固く蓋をして無視していた罪の部分を、言い訳がましく小出しに差出している。正直なところ私と言う存在はそれ以上でもそれ以下でもないだろう。信仰に重心を置いているけれども、信仰気分の内訳は自分の功罪に関わることが半分以上を占めている。もしそこに留まり続けるなら御父様を戴く意味は私にはない。旧約の神様で十分だ。私が正しく御父様にまみえるためには、まずその位置から去らなければならない。その立っている足場を崩さなければならない。崩しただけならさまようだけの私だけれども、新約の足場に辿り着き、更に成約の足場、そして第四アダム心情圏の足場を探さなければならない。氏族メシヤとしての氏族復帰が私達の課題ではあるけれど、私の内的霊的足場が旧態依然の足場であれば、私の代で私の果たすべきことを為すことはできない。過酷な現実が目の前にある。自分が救われるか救われないかが問題ではなくて、私を中心とした一族が救われるか救われないかが問題であり、私の一族が祖国に入籍できるかどうかが問題だ。自分の柱さえ立ってはいないのに、家庭を超えて氏族の柱を立てることを要求されている。自信も力もない、この小さな一つの魂に願われている。しかし何もない私を敢えて選ばれた神様がおられる。何もないからこそ、私は選ばれたと思うべきだろう。私に働きかけ、私を用いようとされる神様を絶対信仰する以外、この道は歩めない。今日も現実とみ旨の願いとのギャップに身も心も引き裂かれながら、それでも信じて前進すべき戦いがある。後ろを振り返らず周りを眺めず、ただ目の前にある戦いに全力を尽くす。
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