2012年5月31日木曜日

今日の想い 412

人に感動を与え、さらにその人を動かすほどのものとは一体何だろうか。普通は愛という言葉が使われるのだろうけれど、ここで愛という言葉を簡単に使って分かったような気持ちになってはいけない。愛という言葉の本当の意味を知らずに、愛という言葉を使うことだけで満足(妥協)してしまう場合が多い。愛という言葉の本当の意味を知ろうとするなら、その逆の愛せない自分を認識し、愛する自分を取り戻すときその対比でこそ理解していくことができる。許しと言う言葉は、裁き裁かれる位置に立つとき初めて許しの言葉の意味を知るようになる。罪の醜さが分からなければ許しの尊さはわからない。本当の強さは、自分の弱さに血反吐を吐くほどの嫌悪感を覚えながら、その過程で強さを受け取ろうとする。その意味で極と極は通ずる。人に感動を覚えさせ自然屈服して動かす為には、相手が愛するに足ると踏んで何かしてあげても動かないのであって、先ずどう転んでもこの人だけは愛せない、その相手の出現こそ感動を与え動かすことができる。どうしても愛せない位置でそれでも愛する意志を曲げなければ、その意志は本当の愛を関係性にもたらすことができるだろう。私達は犠牲をはらう立場に置かれて愛されない位置を甘受してきた。さらに、どんなに犠牲を払いどんなに苦労しても、まだ足りませんと言えるのが統一食口だ。愛されない位置でこそ最も愛される意味を探ろうとし、愛の本質を受け取れるようになる。この逆説的な意味するところを理解できなければ、御父様の心情圏の中心に辿り着くことはできない。御父様の息子娘であると断言できる、そういう切っても切れない父子の因縁(むすびつき)を築きたいという想い。その想いや衝動の力の強さは、私がより否定され、より犠牲となり、より苦労することで勝ち得たものではないだろうか。愛しなさいという言葉は、投げかける相手の立場で同じ愛せない者を愛した、或いはせめてその同じ愛せない者を愛そうとする内的戦いにある者が口にできるのであって、関心もないしどうでもいいという言葉や無視してしまえという言葉と同じようにしか聞こえない、投げやりで、愛という言葉を貶められているような愛という言葉の使い方を見ることが時折あって、私自身はどうなのかと内面の声に問われて黙り込むことがある。

2012年5月30日水曜日

その日に向かって

再臨のメシヤの時代に居合わせ、その御方が期限まで表明された摂理の最終段階に、地上に存在していることの重さを受け取る必要がある。人間存在それぞれが私であって私ではない。私に多くの霊が再臨協助し、摂理の最終段階を共にしている。周りを見、世界(特に教会内外)を見れば歴史上の全ての役者が出揃っている。聖書に登場している存在も人物も全て降り下り、摂理の最後舞台として演出しているかのようだ。勿論神様の側近中の側近であったサタンも、神様の位置におられる御父様の側近中の側近から登場した形になった。グループに心を売って首謀者に従えば、カインの党派としてのカイン的位置にあった歴史上の人物を、自分の体に憑依(?)させてしまうことになる。それが運命的なものなのかどうかは今の今決められる事ではないが、本人が悔い改めて一刻も早く御父様のもとに帰る努力を惜しまず努力すれば、エサウがそうであるようにカインの位置を勝利しヤコブと一体となって、アベルの位置と同じ位置を取り戻すことができる。悔い改めながら、その都度再臨協助している霊を復活させ、その都度より高い霊を受け取って行く。或いは逆に、協助している霊の前轍を踏んでしまい、より低い霊を担って蕩減を増さざるを得ない。私が誰を担っているかを明らかにしなくても、担っている霊の勝利すべき内容は本人がよくよく分かっているはずだ。それが曖昧だと言うなら、祈りが足りないだろうし内的に私を見つめ直す必要がある。サタンの位置にあればエバを奪おうとするだろう。カインの位置にあればアベルを殺そうとするだろう。ハムの位置にあれば御父様は裸で何もないと言うだろう。パロの位置であれば兄弟達が復帰する全てを我が物にしたいと思うだろう。モーセに従うイスラエルの民の位置で、摂理延長の荒野路程に疲れ果てて信仰を弱くすれば、生活重視に意識は取られて金の子牛を祭り上げる者に従うようになるだろう。過去の全ての霊が再臨協助するとはそういう意味だと捉えられる。しかし明らかなのは、御父様は既に完全勝利されたのであり、悪が闊歩したサタン主権の六千年歴史が繰り返されることはなく、悪へ身を落とせば落とすほど己の首をより締めざるを得ない。妥協できる逃げ場は何処にもない。

2012年5月28日月曜日

今日の想い 411

以前、メシヤとしての真偽と記して随分波紋を呼んだようだけれども、自分の救いを人の判断に委ねたり、或いは人の救いを自分の意見で左右させることは違うだろうし、私と他との間で私の救いがどうこうなるものではなく、結果的に、私の救いは私と私のメシヤとの関係に集約される。あるブログで御父様を偽りのメシヤだと決め付け、有ること無いこと偽りのメシヤの理由としてどれ程あげつらっても、それを目にして受け入れて揺れるようであるなら、自分のメシヤ観が御父様に着いて行くほどには定まってはいないと言うことだ。他人のメシヤではなく、私のメシヤ、私を救ってくださる方が必要なのであって、他人がどう判断しようが私の救いとは関係が無い。他人の意見が気になるのは、メシヤをどうこう言う以前に、私は救いを必要としているのかどうかが先ず分かっていないからだ。救いもその言葉だけを取れば体の救いかも知れないし心の救いなのかも知れない。しかし霊肉の救いとなると、宗教的、更にキリスト教的背景も知識も感情も自分にないとなると、霊肉の救いの意味も実感も本当のところ湧かないだろう。本来の祝宴に招かれた者達ではない悲しさがそこにある。しかし罪の意味も、救いの意味も正しく理解して入教したのではなくても、信仰路程の中でこそ確立されていくものだと確信している。メシヤの真偽はさておき、教会に対して様々な判断を下し、それに対して今自分が声を上げることが善であると顔を上げる兄弟がいる。某グループに組する一部の人間だ。彼らの間違いは、御父様が良心といわれる良心を分かりもせず、自分が勝手に思う良心を立てて、判断をそれに委ねていることにある。教会や中心者が指示してきた事柄が、どれほど己の感情を傷つけるものであったとしても、たとえ社会的善悪判断に反するものだと決め付けるとしても、そういった教会に反する想いが優先される限りは良心の姿を装った恨みであり、その衝動が彼らを動かしていると見て取れる。彼らは御父様の救いを必要とはしていないようだ。善悪判断と決め付けに躍起になって、救いはどうでもいいのであり、御父様への帰依を諦めてしまっている。勿論救いは彼らひとりひとりと、それぞれの信じるメシヤとの関係であるから、結果的には私が関われる訳ではないけれど、私は私と私の御父様との因縁によって、彼らに対して戦う姿勢を辞すことはない。それはこの1012年の、私の御父様への帰依だ。どちらの言い分が正しいか間違っているかの土俵に自分を委ねる限りは、どうにでも解釈でき、如何様にも論理構成ができてケリは着かないのかも知れないが、自分の判断も思いも捨てて御父様に全てを委ねるのであれば、答えは自ずと見えてくる。教会側に立った者全てが御父様への絶対信仰、絶対服従に貫かれている、とは今の時点では言えない。これからも現状と同じ手段かどうかは別として、羊とヤギは分けられていくだろう。しかし某クループに組すれば明らかに救いの逆の経路を通らざるを得ないし、それは遠く厳しい第二、第三の荒野路程が彼らに待ち受けている。その覚悟が彼らにあるのなら、それもまた道かも知れないが、しかし彼らに覚悟があったとしても彼らの後孫さえも巻き込むことになるだろう。彼らはその覚悟もしていると言うのだろうか。御父様の語られ指示されることが御父様の本心ではないと、もし彼らの偽らざる本心がそう言うとするなら、いつの時点で誰の言葉で、御父様の指示と本心が乖離していると感じ、そう断言したのだろうか。それ以前は一致していたとするのは何をもって判断していたのだろうか。どちらにしてもそれは御父様への絶対信仰とは言えない。御父様と自分との間に、良心を装った別の何かの判断を介入させている。

2012年5月26日土曜日

今日の想い 410

子供が生まれて人は次元を上げる(縦的段階を上がる)。人は次元を上げて親になる。自分が親という存在になろうとしたのではなく、子供が私を親にした。親としての自覚を子供に負うている。親としての自覚も、親としての感情も、親としての衝動も、全ては子供に負うている。愛の対象に負うている。人間が創造されて神様は次元を上げた。神様は次元を上げて親なる神様になった。いや、なるはずだった。神様が親になろうとしたのではなく、喜びの対象として創造した人間が神様を親にするはずだった。神様も親としての自覚を人間に負うている。親なる神としての自覚も、親なる神としての心情も、親なる神としての衝動も、全ては人間に負うている。愛の対象に負うている。神様が根源であり主体であるけれども、親なる神様としての自覚は人間に拠っている。しかし、堕落という事実が人間と親なる神様を隔ててしまった。サタンを親とする人間は、神様を真の親として立てることはできなかった。親としての自覚も、親としての心情も、親としての衝動も奪われて、親としての神様にはなりきれない。根源の神、創造の神ではあるけれども、親なる神様にはなれなかった。イエス様が誕生されて、初めて神様は親なる神様になられた。旧約の創造主としての神様から新約の親なる神様となられた。そして十字架の摂理が足早にやってきて、親なる神様は子を奪われた。親なる神様はすぐさま子を失った神様になられた。神様ほど可愛そうな方はおられないだろう。創造した人間を親として愛せない。愛したくても愛せない。逆に人間は神様を恨んできた。堕落の身の自分を呪いながら神様に恨みの槍を突き刺してきた。十字架につけられたイエス様を兵士が槍で突き刺すように、人間を直接愛せない神様を、人間誰もが恨みの槍で突き刺してきた。不憫な子であればあるほど親は子が愛おしい。子が親への恨みを募らせれば募らせるほど親としては居た堪れない。親は子供に全てを負うて、あらゆる情の痛みを通過しながら、神様の心情を理解していく。

2012年5月25日金曜日

今日の想い 409

主権の中に悪が台頭してくると北イスラエル、南ユダに分裂され、北イスラエルは惜しみなくアッシリアに手渡され、滅亡させてしまわれた。摂理中心民族、国家であっても、いや中心的な立場であればあるほど容赦ない分別がなされる。アダムとエバが堕落した長成期完成級の時期、彼らがどこに中心をおけばいいのか分からず混沌の中に陥って堕落したように、いかなる食口も思考の混乱を起こして彷徨う。全体に於ける分別が為されると同時に、個人個人に於いてもこの期間はっきりと分別してしまわなければならない。台風一過を待つように眺めているとするなら、個人の分別、ハトを割くことを小さな事として無視していることになる。或る期間内に分別されなければ、グループと共に火に燃やされてしまうだろう。自分の中の分別されないものが何であるか、それを見通すほどに良心が正午の位置にあって霊的に明るければ言うことはないが、未だ陰っていたとしても、御父様に対する絶対信仰を立て、絶対服従を供えていけば、それこそが目が開いていない私の手を引いて導いてくれるものだ。この2012年を侮ってはならない。内的霊的に見えなければ何ら変わりない日々や季節が流れていて、一体何が起こるというのだろうかと、また大地震でも起こるのかと天変地異をイメージするに留まっているけれど、私の中で天地を逆にする大変化が着実に粛々と行われている。気付いて見ると祝福圏の蚊帳の外に立っていたと言うことがないように、だからこそ分別の機会が今与えられているのであり、他人事のように眺めていないではっきりと宣布文を受け入れ、私の中にも宣布して混ざり合った善悪の心魂を割かねばならない。今の今、切迫感を感じない食口は、祝福基準のラインからかなり後れをとっている。

今日の想い 408

その先生のお話は、常に穏やかで気を許せば眠くもあったけれど、実に理路整然と話されて分かりやすかった。あれほどのみ言葉の人が、どうしてこんな態度を取られこんな状態になるのかと、合点がいかないのが大方の食口だろう。私も腑に落ちるまである程度の時間を要した。どれほど原理的な解釈であったとしても、人を指してサタンの位置だと言うのは極端すぎると思ったし、ましてや側近中の側近として御父母様に仕えてこられた先生だ。闘争の真っ最中にあって、これを教訓として受け取るには早合点に過ぎるけれども、高い位置に有ればあるほど狙われ易いということだけは誰もが頷くだろう。予断の寸分も許されないヒマラヤ登頂の最後の絶壁で、数ミリの足の運びを間違え、大きく割れたクレパスの奥深く、地獄の底にまで一瞬で転げ落ちてしまったと言ったところだろうか、、。中心位置と言うある最重要ポイントに於ける、ほんの数ミリの不信や驕りが、集積マイクで採取されて天宙スピーカーの大音響として鳴り響くように、或いは微細な中性子をぶつけることで一瞬の連鎖拡大反応をなして巨大な核爆発を起こすように、御家庭から教会全体まで全ての不信という不信を集結させ、悪という悪を集結させている。中心の更に中心に位置する立場がどれほど恐ろしいかと言うことだ。神様と神霊存在達が一方にいるように、サタンとサタン的存在達が確実にいる。サタンは神様の前に悔い改めても、多くのサタン的存在達が確実にいて、自分達の居場所も存在自体も否定される最後の絶壁に立っているために、その足掻きは死に物狂いだ。サタンが取る条件の僅かでもあれば、執拗に攻め込んでくる。グループは、霊的なサタン的存在に操られているとは露ほども思っていないだろう。グループに組するものは今までの信仰路程で、霊的知に於いても、霊的感情や気分に於いても、サタンの認識が極めて甘すぎたと言える。たとえ原理的解釈はされても、エデンの園の物語としてだけ認識し、自分の内面の現実として受け取れなかったと言うことだ。サタンに対する実感がないから正体が見破れないのだ。摂理は堕落人間の理解を踏んで進められる訳ではない。どうして、、と考えること自体、摂理の願いに一致しない場合が往々にしてある。起こっていることを同時的に原理的に理解して歩むのではなく、理解は後付けでなされて頷くのであり、その場はただただ絶対信仰、絶対服従あるのみだ。

今日の想い 407

アメリカは訴訟社会であり、あらぬところから槍を突き付けられる場合も決して珍しくない。勝敗結果を考えず感情に任せて、取り敢えず訴えてしまうのであり、また訴えることに関しては何らの制限もない。こちらとしては当然の言い分として、焦げ付いた手形の返却を要求しているのに、相手方は逆手を取って、手形自体が無効だと言いがかりをつけ先手でこちらを訴える。全く道理に合わないことが自分の身に起こり、暫く呆気に取られてものも言えないが、訴えられた以上放って置くことはできない。裁判という公的第三者を取り込んでの複雑なプロセスを踏んでいくことになる。複雑で専門的な法的用語が三者間のツールであり、原告被告両者の闘争媒体でもある。英語ですら疎い者が、法的用語に翻弄されて気押されない訳がないだろう。しかし相手方はそこを突いて狙っている。召喚状を一度ならず二度までも送りつけ、法的用語を駆使して語気の強さを文面に表し、威嚇に全く余念がない。相手方が弁護士を立てているように、勿論こちらも弁護士を立てざるを得ないのだが、勝敗は弁護士の仕事に大きくかかっている。マグドナルドのコーヒー裁判やOJ裁判を見ての通り、弁護士の技量に掛っているところがまことに大きい。しかし、忘れてはならないことは主体はあくまで原告被告の両者であり弁護士ではないと言うことだ。どんな弁護士を使うかは主体の判断にあり、そしてどんなに弁護士に技量が備わっていても、全てを弁護士に丸投げして任せ、気を許してしまえば勝つ訴訟も勝てなくなる。勝つと言う責任感情を一瞬の気の緩みも無く持ち続けることだ。内的霊的に勝てば必ず勝つ。勝てば霊界を証し出来るだろう。今まで、我々の責任感情の薄さがどれだけの摂理の敗因をもたらしたことか。ビジネスをやらせても赤字を出し続けることに何の負債も悔しさも抱いてはいない。勿論口では申し訳ないと言い、そう思っているつもりでいる。しかし残念ながら本人もまわりも責任とは程遠い甘えがあることが分かってはいない。痛みとしての責任感情が湧いていない。ひとつになって勝利するのではなく、ひとつになって妥協し甘えてきた。依頼人の切実さや覚悟が弁護士に伝わってこそ初めて戦いの土俵にあがることになる。訴えたことは無いが今まで何度か訴えられたことはある。訴えられて初めて、この、打たれるという内的霊的実感を経験する。アメリカで外的な苦労も打たれることもそうないが、この精神的に打たれることを通して、私は御父様の代身だという誇らしさが内面に充満する。

2012年5月24日木曜日

平和裏に、、、?

誰もが平和を願っている。それは当然のことだ。しかし人類歴史は闘争歴史でもあり、闘争歴史を通して復帰の摂理をされてこられた神様であり、戦いを外から眺めて堕落人間の好戦性にただ溜息をついておられた神様ではない。本当の平和は、サタンに奪われたものを奪い返してこそ迎えることができるのであって、食口の中ですら平和主義者がいて、波風立てるべきではないと教会のグループへのあからさまにみえる対応を憂慮している。軍事アレルギーで、軍隊をもつから平和にならないのだとか自衛隊は憲法違反だとか叫んでいる連中とそう変わりはないと言ったら気分を害するだろうか。平和主義それ自体は尊い。しかしそれが万民を思い遣り、平和の為には犠牲すら厭わない意志を貫いた純粋な平和主義なのかを問うべきだ。犠牲の上にある繁栄社会にあぐらをかき、自分は何の犠牲も払わずに平和を叫ぶのは偽善だ。食口であっても戦いを外から眺めていて批評を口にするのは、御父様の胸のうちを無視している。平和主義者にはロマンチストが多く、自分が夢見てイメージする決して現実的とは言えない平和に酔っているが、平和酔いというか平和ボケで、サタンが自分の中に居座っていて、平和ボケ故に好きなように操られていることを気付いてはいない。えてして平和主義者であると信じながら、実のところ戦いから逃げようとする妥協主義者に過ぎなかったりする。そしてどんな状況でも言い訳だけは饒舌にして、当事者にならないように逃げまくる。食口も自分の心と体の戦いすら認識できずに、自己の矛盾性にすら妥協しているとは言えないか。教会を支持はするが、あからさまなグループへの対応は良くないと言う意見も多いが、起こっている現実を本当に認識しているのだろうか。彼らが我々の資産を名義上だけの法的権限で売り飛ばしている惨状を仕方がないから黙って見ていろとでも言うのだろうか。アメリカでは教会の殆どの資産を売り飛ばし、御父様の息のかかった企業も彼らの手で遣りたい放題だ。み旨の道に、この道にいなくてはならない人間、いてはならない人間、いてもいなくてもいい人間とある。今の状況でどっちつかずはグループと同じで、いてはならない枠組みに入れられるだろう。訓読会での御父様は平静を装われているように見受けられるけれど、私が見た御父様は怒気を露わにされて我々にはっきりと分別を突きつけられた。裂いて分別してこそ生き残り、残った者を御父様は受け入れられるはずだ。

2012年5月22日火曜日

今日の想い 406

誰が背負うでもない、私だからこそ背負わねばならないものがある。私が私として生まれた理由でもあるだろうし、私が私としての人生を送る理由でもあるだろう。重荷を背負うて歩むという人生気分がそこにある。他との比較で自分を見つめれば更にそうだろうし、そこから生じる感情に委ねれば、大概のところは悲観的人生気分に向いてしまう。背負わされたという以上、重荷として捉えていることになるが、それは私は全体と分け隔てられた小さな個にすぎないという気分からそう思えるのであって、全体と私は愛で結ばれてひとつであり不可分の関係だという視点に立つなら、背負わされたのではなく全体から頼られ戴いたということになる。背負わされている認識から戴いている認識に変わることができれば、私の中で今までの私の天地が逆になったと言えるだろう。宗教の使命は、個から家庭、家庭から氏族と言うふうに、個から全体へ向かう私という認識を啓発してきたと言えるはずだ。御父様が勝利されたように、聖人の基準まで私という認識を啓発すれば、堕落した世界の天地を逆にしたと言えるし、聖子の基準まで私という認識を啓発すれば、堕落した天宙全てを逆にしたと言えるだろう。私は、或る悲観的運命を背負わされて生まれたのではなく、宇宙全体から願われ頼られて使命的任務を戴いてこの地上に生まれた。便宜上そのように認識するのではなく、その認識こそが正しいはずだ。しかしそのように認識を転換したら人生が容易になるというものではない。苦しくもあり辛くもある人生路程には何ら変わりは無いだろう。しかし人生に恨みを抱くのではなく、苦労の耐えない人生でさえも感謝できる自分をきっと見出せるはずだ。実はその感謝を供えたとき、神様の心情に触れるのであり、神様の涙が私に滝のように流れ込んでくる。そんな体験を何度も何度もしていれば、神様はより近い存在になり、どれほど犠牲の歩みであっても、神様の涙を味わったこの胸が愛の虜となって御父様からは離れられない。だから統一食口は神様の心情を掴むのであり、神様の心情を掴んだ食口は強い。

2012年5月20日日曜日

言葉

人の望みはなんだろう。何を願って時を刻んでいるのだろう。人は誰でも言い続ける。幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。、、、言い続けることで、幸せになりたい私であり続ける。幸せになりたい自分であり続けるけれども、幸せになれる自分はつかめない。幸せになりたいという呪文には、今の私が幸せではない恨みが込められている。呪文を何度も何度も唱えながら、幸せではない恨みを山のように積み上げている。みんな、恨みの山を重たそうに抱えながら人生をさまよっている。言葉に恨みが込められれば呪文であり、感謝が込められれば祈りになる。人はいとも簡単に言葉を吐き出している。どんな言葉にも想いが込められ、霊が込められる。簡単に吐き出した言葉に想いが、霊が乗って届く。人は息を吐き出しながら言葉にする。息を吸い込みながら言葉を受け取る。私の吐き出す言葉にはどんな想いが、どんな霊が込められているだろうか。言葉にすることにどれだけ意識を使い、神経を使っているだろうか。美辞麗句を並べ立てろとは言わない。どんな美辞麗句よりも、ただ一言の素直な言葉が美しい。論理をもって遣り込めろとは言わない。どんな理路整然とした論理より、ただ一言の覚悟の言葉が強い。親が子を想って、眠れぬ夜を幾夜も重ねて、子への凝縮した一言がどれほど重たいだろうか。それは月よりも重く、地球よりも重いと言えるはずだ。それこそが言葉の本当の意味だ。言葉を使えることが私が精神存在であることの証だが、私が真の愛の存在である為にはみ言葉で骨肉を築き上げなければならない。ただ吸収するのみならず、霊も肉もみ言葉で作られていると言えなければならない。そうすれば、吐く息さへも神霊に溢れる。私は言い続ける。感謝です。喜びです。希望です。、、、言い続けることで、感謝の、喜びの、希望の私であり続ける。私は祈り続ける。この痛みも感謝であり、この悲しみも喜びであり、そして痛みも悲しみも甘受できる私こそ希望だと、、。

2012年5月18日金曜日

今日の想い 405

今日には今日の太陽が東の空から昇っていく。今日昇る太陽が私に希望をもたらすのだろうか。私の中の太陽を引き出してくれるだろうか。しかし明らかに希望を、次の日また次の日と昇る太陽に期待していくことで、限られた時を狭めている。このまま為すすべもなく待ち続ければ、死の罠が口を開けて待っているだろう。光明が差し込んでくるその気配を逃すまいと、あらゆる神経を総動員しながらもここ数日間を送ってきた。しかし未だ暗闇の中を佇んだままでいる。孤独の谷間を通過しなければならないのは、いつのどんな戦いにも当て嵌まるが、何が飛び出すか分からない、蓋を開けてしまいたくても開かないこの期間は、あらゆる否定的感情が圧縮釜の中で煮え滾る。孤独の谷間は地獄そのものだ。戦いを勝利に導こうとするなら、一度は地獄に下り、この否定的感情をなだめて自問する内的作業が要求される。私の中に塵一つでも疑いの思いを残すなら、堕落性からくる思いに主管されるなら、孤独の谷間を行軍し続けることは難しい。戦いの最中には全くの余裕はない。辟易して項垂れる身体を何度も鞭打ちながら、姿勢を正し、目を見開いて、度胸を据え直して、戦いに専念することだ。行軍の足を止めないことだ。出口の見えない産道(トンネル)も、抜けてしまえば勝利の女神が待っていて微笑んでくれる。どんなことがあっても妥協して讒訴圏に留まることがあってはならない。戦いを投げ出せば楽になるかも知れないが、明らかに私の中の霊的支柱は倒れてしまう。御父様に少しでも近付きたい衝動をサタンにくれてやって、その代償に魂の安逸の場をせしめることになる。戦線から辞退してサタンと妥協した姿を、去って反旗をふる者や怨み事を連ねる者たちに見ることができる。分派やグループに接しないように隔離戦術を取ろうとするけれど、私は逆に彼らを注視することで、彼らが失っていて私の中には存在して働いている神霊を確認できる。この世的幸福を投げ打って歩み続ける統一食口を、いつまでも目が覚めないと言いながら彼らは嘲笑うが、過去にみ旨に邁進していた当時の本人が今の自分の姿を嘆き悲しんでいることに気付いていない。与えられた、勝ち取って取り戻す責任を完遂することが、私がサタンの讒訴圏から抜け出す条件でもある。私は私の与えられた戦いに今日も邁進する。私の中の太陽を引き出してみせる。

2012年5月17日木曜日

今日の想い 404

み言葉は神霊そのものであり、み言葉を表す文字は神霊の体だと言える。人の表情や行動態度を通してその人の内的本質を知ることができると思っているし、探ろうとするのを不思議だとは誰も思わない。それは納得もし、探る意志も差し出すのに、み言葉が表された文字からみ言葉の本質、神霊を探ろうとはせず受け取らないでいる。聖書をひも解き文字を追いながら神霊を探ろうともしなかっただろうし、神霊に触れて魂が揺さぶられたこともないに違いない。そんな経験も体験もない者が、み言葉をよく考察もせず、書かれていることの本当の意味を認識しようという意志を放棄し、そして拙い自分流の間違った認識を正当化する。それは、み言葉を表す文字は他の文字と同じ死んだ文字であり、生きた文字にはなり得ないと言い張っていると言うことだ。み言葉にすら唯物的認識という死の認識を宛がえている。一度は信仰の苗を植えながらそののち翻ってしまった、彼らの多くは感情人間だ。歩みの途上で何らかの感情を害したか恨みをもったかで、信仰を育てる心魂の土壌に毒を蒔いている。堕落的感情に主管されて、み言葉への神霊を探る意志を放棄している。彼らは、胸に渦巻く感情が自分という存在の全てだと思い込まされている。感情を含んだ心魂の原因領域まで踏み込まなければ、堕落的な在り様から脱することはできない。感情に押される形で思考を働かしても、思考はどのようにでも感情の都合のいいように論理を展開してしまう。感情を超えて、心情を尋ねる統一食口ではなかったのか。私の感情をどれほど翻弄されても、胸をかきむしる想いに弄ばれても、それでも御父様を慕い御心情の一欠けらでも味わえることを喜びとする私達ではなかったのか。訓読を供えながら、めくるどの頁にも涙の後が窺えるほどでなければ、本当にみ言葉を訓読しているとは言えない。

2012年5月16日水曜日

今日の想い 403

長雨が三日ほど続いて、今朝も傘を差す程度には降っていたが、その雨もやんで昼前には晴れてきた。しかし湿気は残したままの大地に初夏の陽が射すと、大気は蒸して葉の緑を膨張させる。緑の多いこの地域の夏の雨上がりは、私の田舎と同じ匂いがする。濃い緑が蒸せるような呼気を吐き出し、車の中ですら息苦しいほどだ。地球が生きていて呼吸していることを一番実感する時期だ。やもすると現実が大きく覆い被さってきて、無意識に短く浅い呼吸になりがちだけれど、地球の生命力に圧倒されながらも、敢えて深々と呼吸し、地球と同じ呼吸のリズムに合わせることで自然に溢れる霊の力を受け取れる。聖酒で祝福するのは人間だけではない。大地も植物も動物も、大気も水も物体も、全て御父様の聖酒を含んで祝福を受ける。この地球生命が大宇宙の母なる胎として祝福を受ける。大宇宙の創造以来、始めて地球に真の父母を戴いている。真の父母によって全ては産みかえられる。自然も宇宙も何ら変わりなく、ただ人間の心魂だけが真の父母を通して変わるかのように思えるけれど、外界が何の変化もしないと思うのは慣れ親しんだ堕落的唯物的意識によるもので、目覚めた新しい意識の光に照らされた外界は生まれ変わって大きく様変わりしている。この窮屈な人間形態の中に意識が閉じ込められたままでは、新しい意識の目覚めは起こらない。ゆったりと、大きく深い呼吸をしながら、長い長い血統の歴史の間、閉じ込められ続けた意識も呼吸に合わせて大きく吐き出そう。大きく吐き出して、そして新しく生まれ変わった宇宙の意識を吸い込もう。新しい霊を受け取って初めて、人間は霊に目覚める。

2012年5月15日火曜日

悲観というお化けの正体を暴こう

応えるべき指示事項や、突き付けられた現実が、課題として目の前にある。どう対処したらいいのか溜息気分で眺めているけれども、更に、近い将来何を指示され、何が起こるのかという新たな課題への不安が視線の向こうに居座っている。それが大方の、特に日本の食口の心配や悲観に傾いた気分だろう。過去を見れば、この溜息気分や不安の領域までが結果として実現されてきた。それを、予想が的中したと見るか、或いは思い描く気分に合わせて現実化したと見るかだが、後者が正しいだろう。正しいと言うより、前者は受動的見地であり後者は能動的見地だと言った方がいい。私は日本で歩んでいた頃、他のどの兄弟よりも悲観の極みに立っていた。あらゆる悲観的状況を思い描いて、気分はこれ以上落ちることはないほどに落ち込んでいた。そしてその気分に沿う形で現実は現れてきた。私自身が運命に対する主管性を復帰する、即ち主体的位置に立つと言う場合、対象としての私が何に相対しているか、対する主体は何かを気付くことが先ず重要だ。人間は神様の対象として創造された。しかし堕落してしまったから対象存在として創造された人間はサタンの対象になってしまった。人間は何らかの対象存在とならざるを得ない。神を否定する者は神を否定するのみならず、別の何かを肯定している。別の何かを辿っていけばサタンに行き着く。私が悲観する場合、私は何の対象として相対しているか。神かサタンかという内的霊的に見届けることができない深みのことを本人が口にしたところで、それはあまり意味がないが、問題は悲観する気分の主体(正体)をはっきりと見届けることを意志し、その正体と戦うことだ。戦う正体とポイントを明確にしなければ戦いの土俵にすら立ってはいない。受動的な位置にしがみつけば常に不戦敗で負け続ける。誰よりも悲観した私が能動的な姿勢に変わるように、受動的な信仰姿勢の日本食口も能動的であるべきだ。それは体制としてのピラミッドを崩せと言っているのではなく、食口ひとりひとりが能動的信仰を確立することで、ピラミッドはより強固なものとなる。硬くなれば脆くなる強固ではなく、柔軟性を取り戻せば形態を変えながらも崩れない。それこそが一体化だ。信仰が揺れるだろうと情報を規制すれば、ピラミッドの外枠は体制を維持しているようでも内側から崩壊しかねない。悲観というお化けの正体を暴けば、運命は転換していく。

2012年5月11日金曜日

今日の想い 402

いつもの年と何ら変わりの無い時間が流れ、同じように春から夏へと衣替えしていく季節を外界に見ている。2012年という歴史的、天宙的大変革の年であることは、外界の印象だけに浸っている限りは見届けられないだろう。しかし、気付いている者は鳥肌が立つほどに感じ取っている。人類がヤギと羊とに分けられる過程は既に始まっていることを、、。摂理の中心的位置にある統一の群れが大混乱の中にあることの意味は、やがては世界的にも大混乱になることは免れ得ないと言うことだ。中心位置での出来事が世界に投影されることは歴史が証明している。過去に於いては数十年、数百年という時間的な開きがあったが、摂理の最絶頂期に於いての時間差は殆どない。最後の決戦の場を神側で迎えるのかサタン側で迎えるのかと言うことだが、教会に所属していれば神側だと思っている兄弟が殆どだか、教会さえもばっさりと分断されるかも知れない。最後の供え物、最後のハトを裂く分別が今の今為されている。グループ内に所属する者は早々に見切りをつけて飛び出すべきだ。時間が経てば経つほどに抜け出すことは不可能になってくる。籍を置けば内的にも根付いていくからだ。誰もが生活のことを考えるだろう。後先考えず飛び出したところでどうなるものでもないと思うだろう。しかし文明に踏み絵の前に立たされている。生活のことを重点に置くのか、願いに応えたいと思う意志に従うのか。自己か御父様かの分岐の尾根が私の中にはっきりと横たわっているのであり、時間が経つほどにその尾根は益々聳えて超えられなくなる。グループに所属しない者は助かったと思うかも知れないが、グループに関わっている部分もあるはずだ。それが金銭なのか人との繋がりなのかはそれぞれだろうが、それを取り返す意志を持つかどうかはグループに所属しない者の前にある踏み絵だ。面倒なことには踏み込みたくないと無視すれば、体はグループに所属しなくても心を彼らに許して明け渡している。当面羊の格好をしていても内面がヤギなら直ぐにヤギになる。奪われたもの、公的に貸し付けているものは特に御父様の名にかけて取り戻すべきだ。自分の心魂のハトも明瞭に裂いて天に供えるべきだ。

2012年5月10日木曜日

今日の想い 401

誰かがあらん限りの知恵を使って、今起こっていることの原理的解釈を並べても、所詮堕落人間の堕落的思考の範囲から抜け出すことは出来ない。それらは悲劇的なほど自分の論理に酔っている。酔いがまわって御心情を配慮する感情部分すら消え失せている。唯御一人、御父様こそが説明できる、或いは正しいかどうかを判断されるのであって、例えそれが筋が通っているようでも、辻褄が合っているようでも、それが正しいとは言えない。み言葉にしても、み言葉は正しくても受け取った認識が本当に正しいかどうかは決定されず、常に問い続け尋ね続ける必要があるのに、ましてや誰かの取って付けた原理的解釈など精査する意味も無い。講論604頁全てを諳んじることができるほどに問い続け尋ね続けていると言うのであれば、少しは心情の香りも伺えるものだとは思うが、ただ原理用語を使ったそれらの論理は目を背けたくなるほど気分が悪くなる。それよりは、まだ笑える分だけ明らかな誹謗中傷の方が私には心地よい。これらの解釈に対して反論を持ち出すつもりは全く無い。水掛け論になることは分かりきっているし、そんな暇もない。兄弟達に備えて欲しいのはそれが生きた思考なのか死んだ思考なのかを見極める目であり、示す以上そこに意図があり意志があるはずだが、その意図なり意志が御父様の願いと同じなのかどうか、さらにそれ自体に御心情を尋ねる想いが流れていて受け取れるかどうか、そういった本質を見る感性にも目覚めて欲しい。前にも述べたように、論理的な知がみ言葉への入り口ではあるけれども、かと言って現時点での御父様への自分の認識、み言葉への認識が絶対的に正しいと判断する私が基準ではなく、基準は常に御父様にあるという絶対信仰を揺らしてはならない。自分の認識を基準に置いているから、自分の好いように御父様もみ言葉も判断してしまう。論理をもって巧妙に操ろうとする狡猾さはマムシの子を証しする何物でもないが、御父様の胸に刺さった釘は見て見ぬふりをするばかりか、さらに深く打ち込んでいる。

2012年5月9日水曜日

良心を考える

霊と魂を混同しているように、良心と道徳心も混同している。良心は良神と言えるほどに霊に根ざしているけれど、道徳心は魂の揺らぐままに顔色を変える、言わば良心のような気分だ。モーセが戴いた戒めに人を殺すなとあるけれど、モーセ自身がエジプト人を殺していて、出発の為の摂理とされている。姦淫するなと戒めにあるにも関わらず、タマルもマリアも姦淫することで摂理に応えている。モーセも、タマルもマリアも、そこに良心の声を聞き、良心の判断はあっただろうかと問うてみるべきだ。切実な神様の声に聴き従うことが彼らにとっての良心であり、そこは通常の道徳的な気分を超えている。私達は切実な神様の声を直接に聞いてもいないだろうし、神様の切実さがわからないでいる。反道徳的な行動を取りたいとは誰も思わないが、切実な神様の声を本当に聞く者は、願いに応える為に反道徳的な行動も取らざるを得ない場合があるはずだ。私の道徳心がどう判断しようが、御父様こそが直接に神様の事情を知り、心情を受け止め、願いを示されていると言う絶対信仰こそが、私達の良心に繋がっていると言えるだろう。しかし御父様が良心と言われる場合、良心という普通の言葉で認識される良心とは明らかに異なるものがある。神様に直接に通ずる、御父様が言われるところの良心が既に我々に立っているなら、どうして私達に絶対信仰が必要だろうか。良心は神様にまさるから良心に従いなさいと言うみ言葉を捕らえて、私の良心は御父様の方向性とは異なりますから私は私の良心に従いますと真顔で言えるだろうか。私達は未だ心と体が戦う存在であり、ひとつになった位置で霊に根ざした良心が立ってはいないし、切実な神様の声を直接には受け取れない。良心という言葉を持ち出す場合、絶対信仰の上でなければ語ることはできない。

2012年5月8日火曜日

金匠

この近代の経済の発展に大きな影響を与えたのは、物質的価値に信用という価値を注ぎ込んだことだ。信用という言葉は随分綺麗事に聞こえるが、無いものを有るものとして信じ込ませたのが信用の発端にある。ゴールドが絶対価値とされ、ゴールドを価値尺度としていた13世紀当時、ゴールドは重いし盗まれないように金匠(金細工師)に預け、金匠は預かったゴールドに対して預り証を渡していた。金匠はゴールドへの交換要求が常に一割前後であることに目を付け、ゴールド預かりの9倍の預り証を発行してゴールドの足りない貴族達に貸し出し、金利を取り始めた。要するに金匠は無いゴールドを有るものとして信じ込ませたと言うのが実のところだ。複利で計算された金利は膨れ上がり、金利で得た新たなゴールドの9倍の預り証を発行して金利を稼ぐと言うふうに、金匠は莫大なゴールドを仮想保有していくことになる。今の銀行も、総預金額の8%の資本があれば良しとされており、取り付け騒ぎが起こって預金者が一気に引き出さない限り問題はない。危険性も含んではいるが、国が銀行の多くを補償しているので通常起こることはない。信用の起源は狡猾に信じ込ませた(騙した?)のがその起こりであり、年数を経るほどに社会や政治にも深く広く影響が及べば、それを崩すことは全てを崩すことに繋がるので暗黙の了解となり、イタリア、ベネチア界隈の金匠をルーツとする何々家と言われる財閥系は、経済の根幹を握ったまま今日まで来ている。現代の中央銀行システムも、根幹は勿論彼らが握っており、FRB(連邦準備銀行)だろうがBIS(国際決済銀行)だろうが同じことだ。信じ込ませた(騙した)と言う事と信頼したと言う事とは本質が全く異なっている。信じ込ませた信用は必ず崩壊する。そして信頼を置く信用が必ず台頭してくる。最近はFXや投資信託で、自分の拠出金の10倍20倍で売り買いをしているのだから、現代は皆が皆金匠だと言えるだろう。そこに全意識を投入してしまい、仕事であり社会貢献としての立つべき足を必要としないなら、生活自体も夢や幻状態になり、麻薬中毒患者と同じようにごく普通のことが狂気として彼らに迫ってくるようになる。

2012年5月6日日曜日

今日の想い 400

宣戦布告されて怖気つけば、その時点で既にサタンに屈服したことになる。兎に角立ち向かう姿勢を見せることが祝福で戴いた内なる神霊が生き残るためには必要だ。勿論感情に於いてはいろんな気分が錯綜する。原罪を抜かれて根無し草となった堕落性が、心魂に苦味を振りまき、堕落的感情を煽って、恐れで心を凝り固めようとする。しかし、この一部の感情がフリーズしたとしても、私の中の御父様に繋がる意志は明確だ。その意志自体には少しの揺らぎも無い。この頭(思考)をどう操られようとも、この胸(感情)をどう弄ばれようとも、私の意志に揺るぎは無い。それは霊界に重心を置いてこそ言える言葉だ。人間は明日のことが心配だし、更に近い将来に起こり得ることも心配で、年を取ると体が動かなくなってからのことも心配だ。しかし全ての思い患いは肉体が存在している前提でのことであり、死のこと、霊界でのことを足場にして考えてはいないし感情してはいない。この地上生活は永世する霊界生活からすればほんの一瞬のことだ。一瞬であるけれども瞬きする間の地上生活をどう送るかで永世する霊界状況、霊界環境が全く変わってくる。地上生活の一瞬の感謝の想いが何千倍もの感謝される環境をつくる。逆に一瞬の恨みが何千倍もの恨まれる状況をつくる。あの世にいって気付いても、永遠の嘆息の日々の何の解決にもならないが、この世の気付きと行動をすれば一瞬で解かれる。悪辣非道な人生の果てに死を持って償うその場で、その最後の一瞬にイエス様を受け入れた右の強盗を思い出すべきだ。私は御父様の前に出て報告できる実績は何もない。50も過ぎればいつ死んでもおかしくないだろう。霊界に重心を置いて考えれば、何の実績も、精誠を供えた証しもないまま死を迎えることを思うと、死は逆の意味で恨めしい。機会が与えられるなら、右の強盗のように、張付けられた逃げ場のない場所に追い遣られることを願ってでも、御父様に精誠を供える自分を生きたい。

2012年5月2日水曜日

坊主地獄

以前、別府に寄った時に地獄めぐりをした。地獄にいながら地獄めぐりをするというこの矛盾。群れから外れまいとして、早足でめぐるツアー客の年配達は、何を思ってこの象徴的な地獄を見て回っていたのだろうか。まさかこの地上が既に地獄だとは思いもしないだろう。そのうちにお世話になるところだからと、そんな冗談を笑顔で口にしながら、しかし本当に地獄に行くとは誰も思っていない。数ある地獄のなかに坊主地獄がある。灰色の熱泥が膨れては弾け、膨れては弾けを絶え間なく永遠に繰り返している。坊主頭のように膨れるから坊主地獄なのだが、浮いては消え、また浮いては消える何千何万という思念を飽きることなく表象し続ける、そんな堕落的な心の様相をそのまま現わしているようで確かに地獄だと納得できる。取りとめのない思念は形になる前に容赦なく弾けて、決して球体となって浮かび上がることはない。思念を形成する心魂が重すぎるからだ。坊主地獄の熱泥もその密度の濃さから数秒を超えて形を留めることがないのと同じだ。堕落人間の心魂はあまりにも物質に浸透しすぎた。物質や地上的感覚に執着して偏り、本来精神と物質の架け橋となるべき心魂はその役目を果たしていない。精神性を地上にもたらし、もたらして地上で実ったものを精神の高みに届ける、そんな霊界と地上界の橋渡し的中心存在にはなっていない。昨日の上に今日があり、今日の上に明日がある。或いは過去の歴史の上に現在があり、現在の上に未来がある。さらに先祖をすべて遡って血に刻んだもの、清算したものの総体が私であり、私が血に刻むもの、清算するものを後孫が引き受けていく。時間の流れにも、歴史の流れにも、そして血の流れの中にも、坊主地獄を抜け出せる革命的な心魂に生まれ変わる役事が私のなかで行われている。惰性的心魂の大改革は、惰性的生活の打破が条件だ。

血統的転換

血統(的)転換のみ言葉を読めば、メシヤがどういう経緯で堕落と関係のない、即ちサタンの讒訴圏を越えて生まれるに至ったかを読み解くことができ、また人類の真の父母として、人類を生まれ変わらせる存在になりえるかを説明されている。イエス様は聖別された胎中から堕落以前の位置で生まれたけれども、その位置で既にメシヤとしての条件が備えられていたかというと、公生涯3年の出発に至るまでの30年の勝利的歩みが必要になってくる。いくらイエス様がサタンの讒訴圏に無くても、イエス様個人の位置に留まっていては人類を救うメシヤとしての条件は備えられない。天から地上に下る方法ではなくて、地上に堕ちた存在が天に帰る方法を示さなければメシヤとはなれないだろう。それゆえに堕落以来の歴史に関与した億万のサタンとの熾烈な戦いが生死の境でなされて、全てが完全屈服して頭を下げないかぎり、人類を産みかえる真の父母とはなれない。罪のない存在でありながら、罪の代価を身を持って払い続けることを良しとされ、サタンは勿論のこと神様までもが容赦ない責め苦を容認される。人類の生贄であり歴史の生贄が公生涯までの宿命的路程だ。私達には理解しようとしても到底理解できないだろう。そこまでの辛苦を味わうこともなければ舐めることも出来ない。御父様が生贄となることで、私がサタンの手から買い戻される。私が戴いた祝福は犠牲の血が流されて勝ち取られた祝福だ。御父様の血と汗と涙を代償に受け取った祝福でありみ言葉だ。その実感が湧かないからと祝福を蔑ろにする者がいる。歩み始めたものの、犠牲はおろか泥が跳ね返ったからと非難を浴びせる者がいる。救いを与えようとされるのに、スイカやキュウリがないと文句を言う者がいる。ありとあらゆる理屈をこねて反論する者がいる。納得させたら救いを受けてやるとでも言うつもりだろうか。こうも傲慢な態度で平然とおられる神経が私にはわからない。御父様は人類全てに救いの道を開いておられる。血統転換して真の父母によって生まれ変わる為には祝福を戴かなければならない。その祝福は、生死の境で誰よりも、何よりも、自分の生命よりも真の父母を愛する、その決意と覚悟の基台によって支えられる。

今日の想い 399

私はあらゆる誘惑に晒されている。目に心地よいものばかりを見ようとし、耳に心地よいものばかりを聞こうとし、触れたいものだけに触手を動かそうとする。あたかも時間を止めることができるかのように、一瞬の刹那の歓びを追い続ける。そのとき私は精神存在としての人間であることを忘れている。腹を満たす為だけの生に満足するように、心地よいものばかりに身を埋めることで満足したいという私がいる。あたかもその為に生を受けたかのように、感覚的なものを追い求め、幻だとは気付かない永遠の酔いを夢見ている。この地上は誘惑の地。感覚の背後に陥れる為の罠が、どれほどいたるところに仕掛けられていることか。そして人はいとも簡単に罠にかかる。罠にかけられてもそれに気付かず、知らないうちに数え切れない罠で心魂は捕らえられ、身動きできないでいる。そのうちに肉体は朽ちてしまい、その時初めて罠で雁字搦めになっていた自分に気付くが、時遅く身動きできないまま地獄の底まで転がり落ちて行く。この感覚世界は埋もれて酔うために周囲に存在するのではなく、主管し創造する為に肉体を預かり五感を預かっているはずだ。人間は堕落してしまって感覚世界に主管されているけれども、感覚世界に対する主管性を復帰し、創造性を復帰して精神性を注ぎ込むのが人間本来の務めだろう。精神存在から、感覚至上主義で感覚世界の誘惑の蜜をなめる存在に堕ちてしまった人間。堕落した罪の血流が私の身体にも流れていて、あらゆる誘惑に触手が反応する。イエス様の周りにいた弟子達でさえ、イエス様の尊い愛を受けとりながらそれに応えることができなかった。感覚世界の愛を撰んだ。イエス様の尊い愛は結果的に地に流されて、十字架への道を選択せざるをえなかった。生きた御父母様に侍る私はどうだろうか。御父様の愛を信じて、感覚世界の愛をきっぱりと切り捨てる私になっているだろうか。