2012年7月30日月曜日

今日の想い 436

思考を働かす頭の部分が鷲なら、感情を働かす胸の部分は獅子に象徴される。そして思考、感情とくれば今一つは意志の部分だけれども、意志を働かす部分は生殖器を含む丹田にある。人間は意志を丹田で働かせている。そうであれば丹田の部分を象徴するものは何だろうか。やはり、どうしても想起させられるのは蛇だろう。人間は生殖器を天使長に差し出し、即ち意志の部分をサタンに差し出してしまった。堕落人間は意志の部分をサタンに主管されてしまい自由を奪われている。自由意志の首根っこを掴まれている以上、感情に於いて自由であり思考に於いて自由だと言い放っても、所詮自由意志の首根っこを掴まれたままの堕落人間は形だけの偽りの自由であって、本当の自由を取り戻してはいない。そこで御父様が願われる絶対が必ず必要になってくる。絶対なくして意志の自由はあり得ない。意志の自由なくして感情の自由もないし思考の自由もない。私は自分の蛇の部分を邪悪な蛇にするのか、或いは絶対を誓い行動することで、モーセが旗竿に掲げた青銅の蛇、即ちキリストの象徴に見る蛇にするのかが委ねられており、そこが自由か不自由かの接点だ。愛が自由性の上にないのであれば、それは愛とは言えない。ちょうど電気が伝導体を介して行き来できるように、愛は自由性を解して行き来できる。本然の100%の自由性を介してこそ真の愛は行き来できる。しかし自由性には責任が伴うのであり、責任のない自由は自由ではない。勿論アダムとエバは自由性ゆえに堕落もした。しかし堕落させられたのではなく、自由性ゆえに堕落を取った。戒めを与えられてはいたが、守ることもできたし反することもできた。そして自由性ゆえに戒めに反することを撰んで、自由性ゆえに神様は関与されなかった。そして自由性ゆえに堕落の責任を受け取った。そしてその責任はアダムとエバが背負い切れないほど多大なものだった。人類は自由性ゆえに堕落したのであり、堕落した結果、自由性を失ってしまった。私達は失った自由性を、真の父母に繋がる選択を通して勝ち取っている。丹田の部分を象徴する蛇は、自由意志のない邪悪な蛇だったけれども、真の父母に繋がり絶対を備えることで掲げられた青銅の蛇、自由意志を備えた昇龍になる。絶対信仰、絶対服従の歩みは、この世的には不自由に見えるのかも知れないが、絶対を通して本然の自由意志を勝ち取る歩みであることは間違いない。

2012年7月27日金曜日

今日の想い 435

あなたが期待している天国は天国の本質とは異なる。あなたが望んでいる理想世界は本然の世界とは異なる。あなたが望む幸せはお父様が与えようとされる幸せとは異なる。そして、あなたがイメージするメシヤもメシヤの本質からずれている。あなたが間違っていて私のそれの方が正しいと言っているのではない。私もあなた以上にずれている。堕落人間の或る留まった位置で、これが絶対的に正しいと判断を下す私を誰も備えてはいない。原理を、み言葉を、どれだけ理解していると思っていても、それでも正しいと判断できる位置にはない。さらに言えば、良心ですら私の中ではまどろんだままで、判断できるほどの柱として立ってはいない。ではどうやって私自信を導くのか。ひたすら御父様に帰依するしかない。絶対信仰、絶対服従で御父様に対するしかない。それは学ぶ必要も意味もないから言われるがままにただ走れと言っているのではなくて、だからこそ尚一層祈り、み言葉を学び、少しでも近付こうと努力を惜しまない私とならなければならない。学べば学ぶほどに、どれほど傲慢にも自分は理解していたと言えたのかと、恥ずかしく消え入りたくなるだろう。天国も理想世界も、本然の家庭も私の完成体も、そして神様も霊界も、すべては未だまどろんだままで正しい明瞭なイメージを殆ど誰も備えてはいない。ブループリントは御父様の中にしかない。だから御父様はメシヤであり真の父母であり万王の王であり、誰が取って代わることもできない。しかし、誰が取って代わることもできない尊い御方を、私は子として御父様と呼び慕い侍っているこの感情こそ、私が存在している実感でもあり、私と言う存在に対する誇りでもある。

2012年7月26日木曜日

歴史をどう受け取るか

歴史をどう受け取るかと言うのは、地上に重心を置いて歴史を見るのと、霊界に重心を置いて歴史を見るのとでは大きく異なり、後天時代に於いては霊界に重心を置いた生活が大切であるように、歴史の認識も霊界に重心を置いて受け取るべきだ。今までの通常の歴史認識では、揺るぎなく動かし難い史実が存在し、その史実を文献などの情報と遺跡や遺物を自然科学的、さらに論理的に調査解明して差し出している。しかしそれは一面的であって、と言うのはあくまで人間の意識が今も昔も変わってはいないという暗黙の了解を基礎に置いているからだ。人間の意識は変化している。さらに現代の意識の光で照らし出そうとしても、立体存在を面に投影したものを正しく再現しているのだと言い張るように、一面的で限界がある。後天時代に於いて歴史から受け取るべきものは、はっきり言って感情だ。史実として差し出されているものは私に取って象徴以外の意味はなく、歴史から受け取る感情こそが歴史と私の間の現実だ。差し出された歴史の史実が間違っていると言うのではなく、それは象徴として捉えることで意味がある。講論に現わされた復帰摂理歴史を学べばわかるように、自然科学的観点から捉えれば頭を傾げることしきりで、史実として受け取れるものでもないし意味もないだろう。私達は自然科学的史実として摂理歴史を理解しているのではなく、感情に訴えてくるものを受け取っている。それは史実では受け取れなかった歴史の現実であり、歴史に流れてきた感情を具体的生活の中に再現されて、私達は今まさに歴史と共に生きている。地上人間は感覚で受け取る体験には意識の殆どを宛がっているけれども、感情で受け取る体験そのものは委ねるだけで意識的ではない。感情を感覚体験ほどに意識化できれば感情に生きるもの、蠢くものを実感できるだろう。事実、霊人達は感情の中に生きていて働いている。霊人と地上人間の接点は感情にある。霊界協助も、私達の意識に直接働くのでも奇跡的出来事として現れるのでもなく、私達の感情への影響をして協助する。私達は祈る時、頭を働かせようとするだろうか、それとも心を働かせようとするだろうか。心を働かせ感情として呼び起こそうとする。さらに肉的欲望への衝動は頭に働きかけるだろうか、それとも感情に働きかけるだろうか。如何ともし難い衝動が感情に押し寄せて理性を超えてしまう。祈る時には神霊を感情に呼び起こそうとし、肉的衝動は死人(悪なる霊人)が死人を呼び寄せ感情に押し寄せる。

今日の想い 434

天宙には厳然とした天宙の法があり、天宙に存在しているならその法に従わざるを得ない。いやだと言っても従わざるを得ないのであり、別の法が存在する天宙以外の天宙は存在しない。この天宙は愛の天宙であり、そしてその天宙の法とは愛の法則だ。愛を裏切れば愛の法則に則って愛の裁きを受ける。愛の天宙であるから性相は形状化するし、すなわち想いを形として現わしたい愛の衝動をそこに見る。愛の天宙であるから男性は女性を探し、女性は男性を探すのであり、それは性相が形状化する無形の父が有形の子を現わしたい衝動を横的に担った愛の第二の衝動だ。愛の第一の衝動があくまで主体であり第二の衝動が第一に取って替わるべきではない。そのように愛の天宙だから愛の秩序が厳然としてある。しかし地上人間の現実として横的愛を探し求めることが優先されておりあらゆる問題が生じている。横的愛と言えば聞こえはいいが、愛を貶める、愛とは言えない肉への感覚欲求を満たしたいだけの衝動に墜ちている。愛の天宙を主管する愛の王様を見つけられずに、天宙は堕落以来彷徨い続けてきたと言える。歪んでその存在すら危うい天宙の中心位置に、真の父母を戴いた意味はまさに天宙的出来事だ。縦的愛を立て直し、横的愛をそれに合わせられ、歪んだ天宙は真の愛の権限で球体的存在を取り戻す。天宙ピースカップだ。そして真の愛の権威が全てに及んでいく。天宙の中心に真の父母を戴いたように、世界の国々の中心に天一国を戴く。天一国は真の愛の権威で治められる天国直行の国だ。御父様を地上に戴いている間に何としてでも祖国光復を為すのが私達が存在している意味だ。生きようが死のうが祖国復帰を為して入籍しなければ、私は存在している意味を改めて問うことになるだろう。

2012年7月24日火曜日

宇宙船地球号

宇宙船地球号は寸分の狂いもなく軌道を航海している。船が球体であることが宇宙航海を半永久的なものにする。船に乗船しながらも、地上から見れば朝が来て夕が来て、同じ昼と夜を永遠に繰り返しているような錯覚に陥るけれども、黄道十二宮の羅針盤に沿い、微妙に、しかし正確に角度を変えながら、二度と訪れない時間と空間を旅し続けている。私は、私という船も乗りこなせずに、それでも同じ地球号に乗船しながら、まだ見ぬ理想郷への旅を続けている。この宇宙船がかつて存亡の危機に瀕した史実を、幾世代も交代した乗組員の誰が知っているだろうか。人類始祖の堕落という事実は、この宇宙船を悪魔の手に乗っ取られ、理想郷への航海には堪えられない固形物質化した生命のない船に変えられてしまった。神が導かれた復帰の歴史は、この宇宙船地球号の死から生への奪還でもある。この空間世界に同じ元素を共有しながら植物も動物も人類も地球と一心同体であり、この地球に生命がもたらされる為には人類の心魂の霊的目覚めが必須であり、生命の木である第三のアダムとして真の父母を迎え人類は接木されなければならない。人類の心魂の目覚めと浄化、地球心魂の目覚めと浄化は人類と地球の改造計画でもある。堕落して死の状態にある人類の改造計画はまさに佳境に入っている。全ての次元の全ての世界の存在達が、固唾を呑んでみまもっている。地球に宇宙生命が吹き込まれるその瞬間を、、。新しい光が時間を貫き、新しい生命が空間を凌駕する。宇宙船地球号の時空の航海は、新しい次元に突入していく。私達地上人間がその証人であるばかりでなく、降り来たった全霊界の霊界人間たちもその証人になるはずだ。

2012年7月23日月曜日

今日の想い 433

人間は言葉をして思考する。しかし言葉をして為すのは思考だけではない。言葉をして感情もし、言葉をして意志もする。ここでは言葉を、生きた言葉、死んだ言葉とは敢えて分けない。思考表現として使う言葉は言葉の外的な表れであり、感情表現として表す言葉もまた言葉の外的な表れであり、意志表現として表す言葉もそうだ。よく観察すればわかるように、思考するとき言葉の内的な深みから来るもので思考し、言葉としてそのまま外的に取り出せるもので思考を立てている訳ではないし、感情するときも意志するときもやはりそうだ。言葉が思考のみに使われているかのように受け取っている現代人という思考人間には、思考を立てるという言葉の一面のみを捉えてしまい、言葉で感情し言葉で意志していると言うことが理解できない。感情は思考の源泉である言葉とは別のところにあると思っているし、さらに唯物的な思考に傾くと、感情は本能的動物的なところに端を発していると見るようになる。感情の源泉も言葉にある。意志の源泉も勿論言葉にある。唯物的な意味での言葉を超えて、さらに外的な意味での言葉も超えて、言葉の内的な意味を掘り下げてどこまでも下って行くと、言葉が心情で心情が言葉だと言える源泉がおぼろげに見えてくる。もしその源泉を明確に捉えることができるなら、私はその源泉こそが神様だと断言できるだろう。そして神様は言葉である以前に心情であり、言葉は心情に含まれると言うこともわかるだろう。私が思考する言葉から心情が汲み取れれば、それは正しく思考していると言うことができる。人間的な感情そのものに、ダイレクトに神様の心情が現れていると思うべきではない。堕落人間の通常の感情の部分は天使長ルーシェルに端を発している。堕落を、心魂活動である知情意の知から言うなら、内的霊的無知に陥ったと言えるのであり、情で言うなら、心情から感情に陥った言える。私達は御父母様とひとつになりながら、み言葉とひとつになりながら、無知を克服し心情を復帰している。

2012年7月21日土曜日

教条主義

教条主義という言葉がある。原理原則に固執して融通が利かないことをいう。原理主義という言葉もある。私の捉え方が行き過ぎていなければ、原理原則だけが本人が生きる世界であり、原理原則を重要視するあまり周囲が見えないか周囲の状況を結果的に無視していることを指す。どちらの言葉も周囲の視点から見て言う言葉であり、そう見られていることは認識しているかも知れないが、当の本人が私は教条主義だとか原理主義だと言い建てることは普通ない。統一食口も原理原則を大切にする。当たり前のことだ。しかし原理原則を大切にし、摂理の願いに忠実であろうとすればするほど、周囲は変わった目で見始める。変人扱いされるようになる。特に親にすれば子供が何かに取り付かれたように思えて、親心から子供を取り返そうとする。私達が教条主義的で原理主義的になりやすいという視点もしっかり持ち合わせているとしても、それ以上に神かサタンかという二極判断でどちら側に付くかを迫られ分別を要求されてきたために、どうしても周囲の目は二の次だった。子供が正しい判断力がつくまで、親は子供を分別する。決まった時間に就寝させるとか、お菓子はこれだけだとか、いくら使ってもかまわないと小遣いを好きなだけ与える親は普通いないだろう。そのように成長過程で分別が必要な期間があるように、信仰の成長に於いても分別強化の期間が必要なことも確かだ。それは個人に於いてもそうであるように、教会全体に於いてもそれは言える。宗教としては新興宗教であり、百年を単位に流れてきた宗教の信仰基準を短時間に凌駕しようとするなら、極力集中させ圧縮させて、百年の期間が必要なところを一年で基準を立てなければならない。それが副作用的に歪みを生じさせているとも言える。離れて行った多くの兄弟達がいる。辛うじて信仰を繋いでいてもみ旨へ向かう意志を差出せない兄弟達がいる。彼らは公的位置から見るならば心魂を曇らされた犠牲である。もし私が、み旨に向かう熱い意志を今も絶やさずに持ち続けていると自負するなら、彼らの犠牲を対価として、神様に買い取られている私であるという自覚が必要だ。私は彼らの分まで精誠を尽くし、さらに彼らを買い戻してこそ御父様に顔向けができる。残った一握りの群れは何としてでもこの世が、この世界が屈服する証しを立てなければならない。融通が聞かない者達、やたらに信仰臭く本人の顔が見えない者達、去勢された牛のように単純で言われるままに動き続ける者達、貧しい者達、カルト的で酔ったような者達、そんなあらゆるマイナスイメージを払拭し、実力を供え、実績を見せて、証しを立てる私にならなければならない。

2012年7月20日金曜日

I LOVE YOU

I LOVE YOU. 夫婦の間でも、親子の間でも、いつも伝える言葉だ。何の気負いも、何の恥じらいもなく、ここアメリカではごく自然に口にする言葉だ。韓国ドラマを見ていても、やはりサランへヨは頻繁に出てくる。しかしどういう訳か日本では使わない。愛していると言う言葉があるにも関わらず、日本では使わない。どうしてだろう。私も、妻に対して、子供に対して、冗談交じりにサランへヨとは言えても、愛しているとはどうしても言えない。この気負いは一体何だろう。この気恥ずかしさは何だろう。日本で一番、愛と言う言葉を学んでいるのは食口達だろうし、愛さなければならないとも思っているが、しかし直接愛していますとはどうも言えない。国際カップルと日日カップルの関係性の違いの極みは、I LOVE YOUが言えないことに集約されているのかも知れない。愛なぞという深い言葉は軽々しく口にするものではないと思っている。確かにアメリカに来てまもなく、こと或る毎に I LOVE YOU を連発するのを見て軽薄さを感じた。しかしそれは本当に愛の深みを思ってのことか、いやそれとも、愛という響きに何かエロスを匂わせるものがあることを感じ取って避けているとしたらどうだろうか。兎に角、I LOVE YOU や、サランへヨと同じ感覚、同じ感情で使える純粋な言葉が日本語にはないか或いは使われていない。使える言葉がなくて伝えられないなら、どういう言霊で夫婦関係、親子関係は支えられているのだろうか。負債を覚える相手に、心の中でどれだけ申し訳ないと頭を下げても、最終的に言葉にするかしないかは天と地の違いがあるはずだ。同じように、心の中でどれだけ愛していると叫んでも、言葉にできないことで地上的な愛の実りを受け取れずにいる。そうとも言えるはずだ。もし家族が見守る中で息を引き取るとして、最後にどんな言葉をかけられたいだろうか。或いはどんな言葉を家族にかけたいだろうか。やはり愛していると言葉をかけられたいし、愛していると言葉をかけたい。愛によって地上に落とされたのであれば、愛によって天上に帰りたい。愛に包まれ、愛の言葉に包まれて天上に帰りたい。

2012年7月19日木曜日

真の愛を考える

堕落人間は真の愛を受けて真の愛だと理解してはいない。私達が愛という言葉を使う時、私なりの愛の概念を備えていて、その概念を通して愛を与え受け取り認識している。真の愛は偽りの愛に対しての言葉だが、偽りの愛は愛を偽っているという意味での偽りの愛ではなくて、私の愛の概念に既に偽りの要素が入り込んでいる。愛それ自体は美しい。偽りの愛であっても堕落人間にとっては美しい。しかし普遍の愛にはなり得ない。不倫の愛も当人同士にすれば美しい。しかし奪われた立場からすれば醜いことこの上ない。不倫の愛はどんなに言葉を尽くされるとしても普遍の愛にはなり得ない。愛そうとする場合、普遍の愛に育てられるかどうか、なり得るかどうかは常に試される。今までこの地上に御父様が使われる意味での真の愛は存在してはいなかった。人類始祖が堕落して以来この方、神様から見れば地上で愛と呼ばれるものは全て偽りの要素が入り込んでいた。普遍の愛として実を実らせたものを、イエス様が示された霊的なものとしては認められるとしても、地上に実ったものはない。それでは御父母様を地上に迎えている今、私達は真の愛を受け取っているのだろうか。御父様が私達に差し出されるものは全て真の愛が流れている。私達は真の愛と認識できずに真の愛を受け取っている。私が認識できないから真の愛は存在しないと言うのは間違いだ。私が真の愛として受け止め、私が真の愛としての実りを実らすのであって、真の愛を見せろと言うのは結果だけを奪って受け取ろうとするのであり、アダムとエバがルーシェルにそそのかされて結果だけを受け取ろうとしたのと同じことだ。真の愛は確かに御父母様から流れて私達は真の愛を受け取っている。アダムとエバが戒めに対する絶対信仰、絶対服従を供えることで真の愛の実を実らせたはずであるように、真の御父母様への絶対信仰、絶対服従を供えることで真の愛の実を実らせることができる。しかし実らせるまでは、あらゆる段階で結果を求める自体自覚の自分と戦わなければならないし、自体自覚を否定しなければならない。

2012年7月14日土曜日

今日の想い 432

み言葉は生命(いのち)であると言うのは、その言葉通りに受け取らなければならない。み言葉そのものに生命が息衝いているのであり、み言葉を通して生きた自分になれる。み言葉と、通常の概念や理念と言うみ言葉以外の言葉とを振り分けるとするなら、み言葉が生命であるならみ言葉以外の言葉は死んでいる。死んだ概念、死んだ理念、死んだ思考で自己認識し、世界認識をしているけれども、その認識も死んだ認識だ。それが人間は霊的に死亡圏にいると言う意味でもある。ではみ言葉の生命をどうやって受け取ればいいのか。私達はみ言葉から生命を得ると信じ、み言葉訓読を毎日しているが、本の文字を声に出して追っていくだけで訓読したと本当に言えるのだろうか。100回訓読して奇跡が起きたという証しも聞こえてくるが、私自身が死亡圏から生命圏に産まれることができたと言えるみ言葉の生命そのものを実感した証しは耳に入ってこない。私が生命圏に産まれ出たと言う奇跡的体験が起こらない限り、み言葉の中に入れずに、周りから触れようとするだけに留まり、中に入れば霊的生命に与(あずか)れるらしいと、中の様子を時折伺い見ることしかできない。そして死亡圏に留まったまま死んでいく。霊的な死が分かっていないから生命への渇望も湧かないのだろう。地上的感覚で言うところの、眠った状態にいて目覚めていないと説明すれば分かりやすいかも知れない。み言葉訓読していても、死んだ概念、死んだ思考を用いて相変わらず同じ世界(死亡圏)に留まり続けていれば、み言葉の世界を別の世界像として眺めていることにしかならない。しかしみ言葉をしてみ言葉の世界(生命圏)に産まれるなら、み言葉の只中で目覚めたと言える私を体験するだろう。生命圏に産まれ出て目が覚めるなら、み言葉の背後にあって夜の領域のなかに閉じ込められている本来の私の意志の力を、昼の領域に注ぎ込むと言う意味が理解できるはずだ。そして恐らく、夜の神様を捉えることができるはずだ。

2012年7月13日金曜日

今日の想い 431

自分が思考する為の概念を押し付けられるままに受け取ってきたのが現代人だ。教育は本を通して為されてきたが、不自然に聞こえるかも知れないが、自分の意志ではなく或る意味強制的に概念という思考の源泉を押し付けられている。そのひとつの分かりやすい例として機械的自然、機械的宇宙がある。現代人の殆どは自然科学を信仰し、唯物的機械的に自然を捉え、宇宙を捉えている。私という存在さえも自然科学的に捉えて、霊的存在であるという認識はない。全てが押し付けられた概念でありながら、押し付けられた概念に対して生活上疑問を挟むことはない。概念はあってあるものであるとして何の疑問も挟まず、押し付けられた概念で思考したり、他の誰かが思考したものである本を見て思考を受け取ったりしている。概念を受動的なものから能動的に自らの意志で創り直すのでなければ、組み立てられる思考が押し付けられた概念を超えることはない。み言葉を訓読するには、この概念の縛りを超えなければ他の宗教書、道徳書と何ら変わりはないだろう。地上の人間は共通的な概念を共有しており、昼の覚醒時はその概念で感覚を受け取り、訓読するにしても概念が邪魔をして堕落的思考の域を超えることはない。しかし夜の睡眠時は地上感覚に対して無意識であり思考も働いてはいない。謂わば押し付けられた概念から自我は自由な状態にある。妙な言い方をすると、私は夜の自由な状態でみ言葉訓読の意志を働かせる必要がある。御父様が夜の神様、昼の神様を認識されたように、私は睡眠と覚醒をはっきりと区別してはいるが、夜の私の状態と昼の私の状態が存在することに何の疑問も挟まないし、その関係性も判らないままで夜の睡眠時から昼の覚醒時に何も持ち込めないでいる。自由な夜の私から捕らえられた昼の私を開放し、さらに持ちこめるものがあるなら、夜の私の意志を働かせ、その意志で御父様の概念を受け取りみ言葉訓読を為していると言えるようになる。それには、回数や時間の数理的条件も必要とされると言うのであればそれも頷けるが、一昨日ある個所を読み、中断して昨日続きを読み、今日もその続きを読むと言うだけでは、そこに地上的堕落的概念を超えようとする意志は見えない。

2012年7月12日木曜日

同情

ある食口の、悲惨と言っていい大変な生活状況を指し示されると、それと比べれば自分の置かれた状況に不平は言えないし、感謝して当然だという感情は起こるだろう。下には下があるという比較から起こる感情も感謝を引き起こすと捉えてはいるけれど、その同情心から本来の意味での感謝を紡ぎだすことはできない。同情心が良くないと言っているのではなくて、同情心は同じ立場を私が甘受できるだろうかと問うことであり、甘受を問うことで同情する対象と同じ位置に立っている。同じ位置に立って始めて、言葉をかけることも出来るだろうし、援助することもできるだろう。同情心は、私の中に感情の高まりを認めるだけでは神様の願いに沿うてはいない。甘受し共有することで魂をひとつにしようとしなければ、同情する対象に対して非礼を働くことになる。悲惨な生活状況にあるのは、その食口だけの個人的蕩減として背負わされている訳ではない。その食口は代表し、撰ばれて、その状況を実体的に甘受しているはずだ。全てに於いて個の側面と公の側面がある。私が同情心を起こされたのは対象から流れてくる公の側面からであり、公的感情から公的意志を私に発動させることがその食口に働いている神様の切なる願いだ。私達はこのように、周囲のあらゆる事柄に対して、私に働きかける公的側面、神様の切なる願いを見届ける者となることだ。そして公的に感情し、そして公的に意志することが私の生活の公的側面だ。同情心は、本然の人間としてあらゆる存在対象に発動していたであろう共有心情の名残りとして、今の堕落した人間に見ている。本然の人間は全ての存在対象の性相部分に共鳴し、その心情を共有し、内的霊的に語らうことができる。同情心から比較対照による利己的感謝に留めるのではなく、公的感情を起こして公的意志を発動させることだ。同情心を利己的なものに貶めるのか公的なものに高めるのか、意識していようがどうだろうが私が采配して善神或いは悪神を取り込んでいる。ある食口の悲惨な状況を聞いて、ある者は同情心から献金摂理の禍根を内面に呼び起こすかも知れない。ある者は同情心から運不運を宛がい自分に起こらなくてよかったと安堵を覚えるかも知れない。そしてある者は同情心から言葉をかけたり援助したりと行動にでるかも知れない。またある者は同情心からさらにその食口の前に向かう信仰の強さを見て自分を叱咤するかも知れない。

2012年7月11日水曜日

今日の想い 430

2012年の夏を生きている。取るに足りないこの小さな魂が、訳のわからない幾多の霊に絡まれ続ける夏だ。幾重にも張り巡らされた、仕掛けられた罠にいとも簡単に嵌りもがきながら、夏の暑さに力が抜けるように青息吐息で生きている。いつ消え去るとも知れないこの魂を、周りの霊達がもてあそぶ。何の得るところがあって私なんぞに絡んでくるのか。御父様を認識しているというただそれだけのことなのか。しかし為す術もなく佇んでいれば、時が解決してくれるというものでもない。そこで腹を決めて正面から挑んでいこうとするのだが、立ち上がる力が残っていない。しかしそれでも立ち上がろうとしている。今までがそうであったように、力尽きてもそれでも立ち上がる。戦う為に生きている。他でもないこの終末の時代に、生まれ落ちることを選択した私であって、御父様と共に戦う為に生まれ、生まれる前から召名を受け取ることは分かっていたようだ。意気揚々と戦うのではなく、血反吐を吐いて、死ぬか或いはまだ死なないかの瀬戸際の戦いが続く。この心魂の悶々とした味わいを、私は味わう為に生きている。どこまでもこの心魂は締め付けられ、どこまでもこの心魂は加重され、地の底を舐めながら這いつくばる。その己の有様をしっかりと直視しろ。それを惨めと見るか、いい気味だと見るか、お前は実際どう見るのか。どう見るとしても、この有様をお前は望んで生れ落ちた。だから、その有様を誇りに思え。翻弄され、痛めつけられ、嬲り者にされる私を誇りに思え。どんな有様であっても私の中に灯る火は今まで消えたことがない。そしてこれからも消えることがない。未来永劫消えることがない。どんなに消え入りそうでも決して消えない。それが私に根付いた御父様の分霊の灯火(ともしび)だ。やっとのところで持ち応えている死に際でさえ、それでも御父様の火は消えないことを、私が己の身で試している。2012年の夏を今日も一日耐え忍んだ。

2012年7月10日火曜日

中心者=アベル

私達の教会のみならず、一般社会に於いても日本は中心性を重要視してきた民族だ。戦時に於いては軍部を中心としてひとつになり、戦争が終結すると国民一丸となって経済大国へとのし上がり、良くも悪くも日本と言う全体心魂の手足となっていたのがそれぞれの日本国民であり、その中心性が日本を支えてきた。思考、感情、意志が独立した個人個人の中にあるという認識は比較的に薄く、全体心魂に思考、感情、意志があって我意識せず自分を委ねている。日本を出て初めて、日本特有の全体心魂に委ねていた自分であったことが分かるが、日本の中に居続けるとなかなかその自覚は認識できなかっただろう。明確なアベルカインは、心がアベルであり体(肉心)がカインだと言うものだが、日本人は心魂を全体に委ねているので、本来の意味するアベルカインを理解できず、中心者=アベルとして取敢えず理解する他なく、その意味で御父様は日本のアベルカインの間違いを指摘されたことがある。だからと言って中心者と私の関係はアベルカインの関係とは全く別物だとも言えない。良心的な心魂であれば、善神の計らいで与えられた中心者に、私の心魂に生心を啓発させる従うべきアベル像を見て当然だ。全てに於いて中心者に絶対服従というのも偏りすぎだし、逆に中心者の一言一言を精査してアベル的なことだけを受け入れるというのも偏りすぎだ。だいたい自分が矛盾した存在で自分の判断に堕落的なものが混入しているのに精査出来る訳がない。日本食口も蕩減期間をある程度こなして、全体心魂に委ねたままの私から、神霊が啓発されて私という心魂を備えて、私が思考し判断する段階に至っている。今にして思うと、軍部規律を宛がえたように中心者=アベルは絶対、カラスが白だと言われれば白という低次の段階も当時の日本食口には必要だったはずだ。少なくともキリスト教の背景が全くない私自身は、内的のみならず外的にも僕の僕という期間が今日までの信仰の素地になっている。正直にいうと、素地になっている部分もあるしトラウマのように縛りになっている部分もある。しかしそれはそれで霊的な意味で御父様の前に出たとき、私の犠牲として報告できる部分でもある。

2012年7月9日月曜日

今日の想い 429

こういう事実が判明した。こういう実態が明らかになった。、、そんな情報をもって扇動しようとする者がいて、情報を受けて踊らされる者がいる。立体に生きず面に生きる者は、面の裏と表を行ったり来たりするだけだ。善か悪か、正しいか正しくないか、二極判断することが前進することだと捉えている。しかし二極判断する限りは面の次元に留まり続けて、立体次元があることを認識できないし、別次元の判断があるとも思っていない。それは判断する自分ありきであって、自分を超えた存在に判断を委ねることを良しとしない。自分が判断し認識した神であり、自分が判断し認識した霊界であり、自分が判断し認識したみ言葉であり、自分が判断し認識した御父様だ。自分の認識外のことは存在しないのであり、自分が判断できず認識できない御父様は御父様として受け入れない。彼らはそういう位置に立っている。彼らに絶対信仰の柱は立ってはいない。柱の立たない面か、せいぜい飛び上がれるくらいの高さまでが認識できる彼らの世界だ。彼らの私達への説明は、御父様の真意が側近の誤魔化しによって下に伝わらないと言うものだ。過去の因習、過去の献金を含めたやり方、過去のみ言葉の受け止め方、過去の御父様への接し方、それに固執した古株の先生方が周りにいる限り御父様の真意にフィルターがかけられてしまうと思っている。彼らの言葉で最もよく使われる言葉がレガシーという言葉だ。遺産とか相続とかと言う意味だが、それは御父様はすでに歴史的存在であって、相続する為の伝統だけを御父様に見ているだけで、今の摂理を動かしている御父様ではないと見る。遺産を受け継ぐに相応しい存在は既に判り切っていて、御父様が指名された御方と異なるのは側近が伝える偽りの情報に御父様が踊らされているからであり、今まで決定されてきた経緯から見て正しく判断すれば、誰がレガシーを受け継ぐ存在か明らかだと言うのが、彼らの言い分だ。しかし基元節を超えてどうなるか、しっかりと見ているといい。天宙が前天時代と変わらぬ天宙なら彼らの判断は的を得ているのかも知れない。しかし天宙は既に変わっている。後天時代では天宙を主管される御父様の権威を目の当たりにするだろう。教本教材を残され、伝統を残された既存の宗教的な存在に留まられる御父様では絶対ない。

2012年7月7日土曜日

今日の想い 428

献身期間は男女が同じ家の中で暮らしていた。複数の若い男女が同じ家で生活していることで、周り近所から訝った視線が投げかけられたことは言うまでもない。しかし家は同じでも部屋は勿論分けられていたし、端々に至るまで徹底した分別生活が為されていた。食事のテーブルでも席は分けられていたし、カップに至るまでアダム用エバ用とマジックで書かれて使用を分けられていた。同じ家にいる訳だから会話もするけれど、中心者がいて主管された状態で為され、男女一対一の会話となるとさすがに分別生活の雰囲気に合わずに避けていたし、触れるなどもっての外だった。そこまで徹底された内外の規律が必要なら、先ず男女で住む家を分けたらと言うことになるのかも知れないが、わざわざ一緒の家に住むことで分別生活の意味を知り分別の力を養えるのであり、思わしくない状況になり得る環境でありながら、自由性による主管性を自分に備えることができるかどうかが男女共同生活の原理的な意味だ。実際は同じ家に住みながら殆ど中心者に完全主管されていて、主管性を備えるまでの修練にはなってはいなかっただろう。主管性に於いて極論を言うなら、他の誰もいない自分の部屋に見目麗しい女性が裸で入って横になっても、手も延ばさず生殖器の変化も起こさないと言う御父様の言われる基準になるが、その基準をクリアする為に試練を受けるとしても、99%は失敗して甘い罠に墜ちるだろう。アメリカで御子女様主導で行われている社交ダンスに対していろんな意見がある。アメリカではそれほど非難の声が上がることはないのだが、日本ではかなり反発もあるようだ。挨拶に軽い抱擁が為されるのはアメリカでは二世であっても同じで、それについて顔をしかめる親は日本人であっても先ずいないだろう。社交ダンスという決められた枠内でも相対者以外に触れることに対して嫌悪感があると言うのは、先ず生活習慣の違いがあるのかも知れない。或いは触れることで思わしくない感情が起こるはずだと決め付けた上での嫌悪感かも知れない。しかし規律はどこまでも外的規律であり、どれほど事細かく厳しくしようとも見える限りは目で視姦することもできてしまう。規律で雁字搦めにすれば明らかに自由性による自己主管は育たず、「、、してはいけない」戒律の溢れる味気ない理想世界、理想人間になってしまうだろう。確かに日本的な信仰教育で育てば、嫌悪感とまではいかなくても頭を傾げてしまうのかも知れないが、事実として確認できることは、社交ダンスを始められて二世の堕落問題が大きくなったと言うことは今のところ耳にしない。原理で分かるように見たから堕落したのでもないし触れたから堕落したのでもない。創造本然の世界でも見るな触れるなという戒律があるとは思えない。規律で雁字搦めにされない限り自分を主管できない一世の若い頃とは異なる、心魂の次なるステージに二世は立っている。

2012年7月3日火曜日

氏族復帰

氏族メシヤとして氏族の復帰が私達の使命ではあるが、使命が「、、しなければならない」的なものである限り、使命はいつまでたっても達成されないだろう。氏族復帰をしなければならないのではなく氏族復帰をしたい。そう思えて当然だろうし親を愛し妻や夫を愛し子供を愛するように、叔父や叔母、姪や甥に想いが行って初めて復帰も現実味を帯びるだろう。私を氏族メシヤの位置に立てるのは私ではなく氏族達だ。私が氏族メシヤだと叫び続けたところで氏族の誰も相手にするはずがない。私はひたすら彼らを愛し、彼らの真の父母として御父母様を証しし続ける。愛して愛して更に愛が深くなって、氏族への想い、心情が溢れて彼らをかき抱く。その状態になることが御父様の願いだろうしそうなれば彼らは復帰されざるを得ない。いまだ私達は御父様の心情圏には入り込めてはいない。メシヤとしての御父様の宿命として、親兄弟、氏族を放って置いて私達を愛された。そのあまりにも重い心情の犠牲を踏み台にして今の私があるという、その意味することすら分かってはいないだろう。あまりにも情に於いて無知な私達を、口を噤まれて見渡される眼差しの奥に隠しておられるものを、誰が推し量ったことがあるだろうか。氏族への想いが溢れ出そうになれば、その想いを私達に向けられ、御家族への愛したい衝動をより私達を愛することに変えられ、砂地に大切な水をまき続けられるように私達に接してこられた御父様の心情はぼろぼろだ。四十数年ぶりに故郷を訪ねられた御様子が自叙伝の僅かの数行に載っている。そこに垣間見せられた御心情の一端から、御父様の氏族への想いを呼び出して私の胸の内に備える。その御父様の捨てざるを得なかった無念な氏族に対する想いこそ私達の氏族復帰の原点だ。

思考から心情へ

考えても考えても考え足りず、考えれば考えるほど知への渇きを覚えてしまう。一方で私の拙い思考では、私自身が解決され満たされないことは百も承知だと知りながら、頭の論理から心の論理(?)に移行させることができないでいる。人間が太古の昔から、今と同じような心魂能力を得ていたとは思わない方がいい。特に頭の思考論理は、納得するという意味を頭で理解することと捉えていて疑わないが、納得するという意味は感情が受け入れることを意味する感情の論理の時代が先行して長く流れてきた。意志を働かせる為に頭の理解を必要とすることも事実だが、意志に直結するのは快不快の判断によるし、自分でも分からない衝動に突き動かされて意志を働かせることも少なからずある。頭では分かっていても動けないと言うのが事実であり、心魂の思考活動に意識が当てられ感情という実態を把握しきれないままで日常生活を営んでいるが、快不快として現れる感情の背後に意識を向けることを学んでいけば見えない私の正体が見えてくる。感情の深層に深く入っていけば、気にも留めなかった浮いては消える表面的な気分と、原理で学ぶ堕落性本性として血の中に居座る根源存在とが繋がっていることが見えてくる。罪という言葉の響きに対しては差ほどの嫌悪感も抱かないだろうが、私の中に蛆(うじ)が湧いていると言われれば明らかな嫌悪感が走るだろう。実際、私の血の中に蠢(うごめ)くものはそれに等しい。感情人間から思考人間に変わってきたのは神の摂理としてそうなって来たのであり、感情人間に留まり続ける限り感情を支配するサタンからは逃れられないが、思考人間の部分が強化されることで頭の論理で真理を受け入れる可能性を得ることができた。真理を受け入れた人間はその位置から再び感情部分に意識を当てることで血に流れるサタンの正体を見抜くことができる。感情部分を解放することができる。原理坊やは感情部分をサタンから解放してこそ、神様から流れる心情をその心魂の部分に汲み入れ、神霊を宿した私になることができる。原理を含めたみ言葉を論理で理解することは、み言葉とひとつになる為の一里塚でしかない。頭の論理を飛び越して、直接に心情を汲み入れることができれば、それに越したことはないのだろう。

今日の想い 427

緊急非常事態宣言が敷かれるほどに、この辺りも電気のライフラインは壊滅的だった。住んでいるアパートも丸二日ノーパワーで、夜間の照明もさることながら、連日華氏100度を超えるのにエアコンなしで過すのは過酷だった。なるべく冷気を逃がさないよう、閉めたままにしておいた冷蔵庫もさすがに二日は限界で、開けて見ると痛みかかった食料も見受けられた。店は私のアパートから車で五分の場所にあるが、ストームの直後停電はしたものの朝が明けぬうちに復旧して、冷凍庫に詰めた食材1万ドルも助かったし、営業も休むことなくあくる日から開店できた。不安な面持ちで冷凍庫の中をチェックして、問題ないと分かったときは胸を撫で下ろしたが、安堵するだけでは護られたことに対する霊界への対応としてはいささか不十分だろう。霊界のメッセージを読めば誰もが御父様を手放しで賛美し、歯の浮くような表現さえも使って想いを伝えているが、霊界の表現方法とはそう言ったものだ。地上で霊界を動かそうとするなら、大袈裟なくらいの感謝と喜びの表現をすれば霊界は動いて、目に見えて霊界が働いているのが認識できるだろう。日本人は感情を抑えて表に現さないことをよしとする傾向があるが、そこはアメリカ人や韓国人を見習って、悲しく泣きたいときは人目も気にせず涙を流して泣き、嬉しいときは喜びを大きく表現し、オーバーリアクションだと思えるほどに喜怒哀楽を表現して、日本人は丁度いい。周りの状況を見れば、私の店が霊界から護られていることは明らかだ。祭壇をつくってまで感謝の意を供えないまでも、感謝の想いを膨らませ溢れさせて、胸のうちで何度も何度もお礼の言葉を繰り返す。

2012年7月2日月曜日

店について

店の外面(そとづら)が玄関なら、店の内面(うちづら)が何かと言うと、私の店に関して言えばカウンターだろう。飲食業に長く携わる者なら玄関が大切で、玄関周りを綺麗に整え掃除することで客が入って来ることを知っている。集客する為の見えない鉄則のひとつだ。しかしいくら外面が良くても性格が悪ければ人を受け付けないだろうし、懐が広くなくては人は多くは集まってこないだろう。入りやすい店で店内に入ったとしても、客は自分が要求するものをこの店が提供してくれるのかどうかを判断し、それによって客は増えもするし減りもする。店の内容を充実させることが大切だと、携わる者なら誰でも分かってはいるけれど、オーナーの想いが先ず正しく確立され、その想いが従業員に伝わり、店全体の色となり香りとして漂うようになるには、それ相当の内外の投入が必要になってくる。難しいのは、それが頭で判断され論理だてて伝えるようなものではなく、人の心の領域にあるものによって判断もされ、心の領域にあるものによって伝えることもできるものだからだ。人間は霊的な動物であり、人に会っても、店に入っても、その人やその場の空気感を瞬時に嗅ぎ分ける。受け入れてもくれ、理解もしてくれ、必要とするものを与えてくれるはずだと、どれだけの人が判断するかが店の容量だが、客自身が気付いてはいないが客は判断を頭ではせずに空気感を嗅ぎ分けてしている。だから商売は頭でやるものではなく心でやるものだ。それが私の中で徹底されて心を研ぎ澄まし、身体に浸透されてこそ匂い立つほどとなり、従業員にも伝わり、客にも伝わるだろう。神社に外宮があり内宮があって、幕屋や神殿に聖所、至聖所があるように、私の店に玄関があって聖所の入り口であり、カウンターが至聖所の入り口であるなら、中に働く人間こそ店の至聖所そのものにならなければならないだろう。御父様が話されるようにレストランがレストラン教会であるなら、神殿理想をこの店で叶えていると思っても大袈裟なことではないだろう。

お金の価値はいつまで

現代社会の第一権威はお金だ。生活を維持し、生活を向上させる為にはお金が必要だという観念で未だ世界は回り続けている。生活を維持し向上させる為にはお金の前にお金より尊いものが先ず必要だと言っても、納得はするだろうが、未だ人類共通の観念にはなっていない。共通観念になっていなければ権威にはなり得ない。生活を維持し向上させたいと言う底辺願望は、生命が脅かされないという秩序が保たれている上でのことだが、もしこの秩序が崩れれば生活の為の観念は意味を失う。社会秩序が保たれ、金銭価値が担保されてお金への観念が通用する限り、第一権威の席はお金であり続け、何に取って替わるものでもない。しかしお金は金融の成長に伴い、生活に関わる領域を遥かに超えてしまっている。金融の膨らみは国家の枠を勿論超えているし、UNがUNとしての機能も果たず、国家間の微妙な経済的な繋がりの上に確かな世界国家が存在しているかのような幻想を抱いて、その血流でもあるかのように国際金融は世界を覆っている。築き上げてきた社会秩序が一瞬で崩れるとは誰も思ってはいないが、生活のお金が拠り所としているのは社会秩序ではなく、実は幻想の世界国家に流れる国際金融が拠り所となっている。国際金融が拠り所となっている以上、もはや国家経済はアメリカと言えども一蓮托生だ。ギリシャの破綻をEUが放って置けないどころか、アメリカでさえ放っては置けない。金融商品という紙切れは別の金融商品という紙切れで担保され、更に金融商品には保険が掛けられ(CDS)、お互いがお互いの保険を掛け持ちし、誰が利益を得て誰が負債を抱えるのか、利益を得ることが同時に負債を抱えもするという矛盾を抱え込んでいて、たとえば砂の数ほどもある玉のひとつに玉突きをすると、一瞬で全ての玉を小突きあって、最初に突いた自分に返ってくるようなものだ。今の全てのお金は、巨大お化けがその尻尾を握っていて、お化けが尻尾を引けば一瞬で巨大なブラックホールに価値を引き摺りこんで、価値を吸い取られたお金はものの見事に紙切れに変わってしまう。いつそれが起こっても不思議ではない今なのに、依然と国の社会秩序は保たれているように見せられ、お金はお金としての価値を認識させられているのは、敢えて、今の今はそうさせないと言う天の計らいがあっての事に違いない。そう思えて当然だろう。

ストーム

夏の遅い日暮れは、夜九時を回ってやっと闇が帳(とばり)を下ろす。その日の嵐はまさにその時に吹き荒れた。湿気の多いこの地域は、炎暑で蒸されると、大量の雨雲を発生させ、夕方を待たずに嵐となる。しかしその日は違った。耐えに耐え、抱える限界を超えて貯めこんだ雨雲が、地に押し迫るほどの黒く濃い重量感で上方に横たわっていた。黒い帳が下りて風もやみ、息を止める一瞬の静寂を待つと、最初の強烈な突風が起こって木々の葉を一斉に揺らした。屋内に居たとしても誰もが木々のざわめきを耳にして、ただならぬ怖気を背中に感じたはずだ。間を置いて第二の突風が起こる。より木々を激しく揺らし引き摺る尾もかなり長い。そしてその後は間を置くこともなく、立て続けに、あらゆる角度から荒れ狂った突風の龍が螺旋を描いて地上に突進してくる。枝葉どころか太い木の幹さえも喰いちぎり、巻き上げ、地に叩きつける。駐車場に並べた車も一様に揺れていて、軽い車だったら突風に浮いて倒されていただろう。雨を伴い始めても強風は一向に収まる気配がなく、横殴りの雨が地を叩き、窓という窓を叩きつけると、それに合わせたように電燈が明滅し始め、ついに電源は落ちてしまった。店のことが心配で、なかなか過ぎ去らない嵐にいらついたがどうしようもなかった。気を病んだためか随分長かったようにも思えたが、おそらく20分程度のことだったろう。過ぎ去ってしまうと、荒れ狂っていた様子が嘘のように静寂に変わった。大気は乾いて温度も下げた。しかし朝になって分かったことだが、この辺一帯、広範囲に亘る大停電という禍根を残していった。店が心配で、朝まだ暗いうちに手探りで準備して店に出かけた。ヘッドライトに嵐で千切れた枝葉が照らし出され、見ると結構大きなものまで散乱していて道を遮っていた。幹線道路の信号も軒並み消えたままになっていた。でも店のあるショッピングセンターの電配線は直ぐにも復旧したようで、駐車場を照らすライトも点いていたし、朝早いコーヒーショップでは室内灯も明るかった。安堵した。自分の店に入って冷凍庫、冷蔵庫を確認したが、在庫に影響はなかった。店を中心に一マイル圏内だけが夜の内に復旧したようだが、それ以外のエリヤは復旧に一週間を要するようだった。その日から、店には涼と明るい食事を求める客が押し寄せることになった。