2012年10月3日水曜日

今日の想い 464

人間が生命ある肉体であり、生命ある肉体に心魂が宿った存在に留まるだけであれば、蘇生段階内に留まったままだ。長成段階に入ると人間の心魂の成長が願われる。感覚感情を備えた心魂、次に悟性思考を備えた心魂、最後に意識的意志を備えた心魂、これが長成段階でありアダムとエバは意識的意志を備えるべき長成期完成級の段階で堕落した。本来なら長成期を超えて肉体が霊化し、生命は生命霊化し、神霊的私となる、真を備えた神様の実体、神様の実体対象となるはずだった。原理を学べば蘇生、長成、完成の成長の三段階を学ぶけれども、私自身が成長段階のどの位置にいるのかは把握できていない。祝福を受けるのは長成期完成級の段階であるけれども、あくまで条件的祝福であって本人が長成期完成級の実体である訳ではない。人類歴史の過程、特にヘブライ民族という選民の歴史は、サタンに奪われた長成期完成級までの段階をひとつずつ復帰して、サタンとは関係のないひとりの御方を迎える歴史だ。このひとりの御方、メシヤを迎えることで始めて人類は希望の光を認識させられる。しかし個人それぞれが救い主が必要だという本当の認識は、長成期完成級の段階に自分が至らなければ認識できない。人類は知性をこれほどに発達させてその悟性思考をして自分を把握し世界と世界との関係を把握し、さらにメシヤの存在さえも悟性の光に照らして判断を下しているけれど、そこに留まったままではメシヤ必要性の認識自体が不完全だ。その段階を超えて意識的意志を心魂に準備して初めてそれは本物になる。更に真の父母と共に歩む最後の成長過程、完成期の歩みは、悟性に留まった心魂では想像することもできない領域だ。御父様が完成、完結、完了を宣言され神様と一体となられたその本当の意味を誰が理解するだろうか。基元節を肉体を持たれた実体の真の父母と共に超えるものであることを、誰も疑わなかっただろう。人間成長の本当の意味、成長段階の意味を知らない者は、御父様が通過され、勝利され、宣言された内容を形式的儀式的なもの以上として捉えることはできない。そして基元節もそのひとつでしかない。そうであれば御父様が地上におられようが霊界におられようがさして違いはないだろう。基元節の私達にとっての明瞭な意味は、神様とひとつになられ神様の結婚式が為され、その直接主管圏から再祝福を受けるということだ。地上の人間は神様の間接的働きしか経験したことはなく、基元節を超えて直接的働きは想像することもできない。ましてや神様から直接に再祝福を受けることの意味を誰が説明できるだろうか。どんな説明もどんな理解も勘ぐりの域を超えることはない。悟性心魂の段階を人間至上の位置だと誤信するから、疑いを抱き問題に対する説明責任を求めようとする。御父様は悟性で理解できる領域を遥かに超えた御方で、私は御父様に対する認識の入り口に立ったばかりだという謙虚さがなければ、必死で御父様の袂を掴んでいた手を、自ら放すことになる。