2013年8月31日土曜日

今日の想い 612(結果性自己中心)

一度店に入れば、個人的頭、個人的心を預けて置いて、店の頭、店の心に置き変えなければ、店の為に働いているとは言えないだろう。マネージャーから言われるに応じて体はそれなりに動いていても、心ここにあらずではいつまでたっても店の戦力にはならず、皆の足を引っ張りかねない。マネージャーが意識すべきことは、如何に従業員に店の頭、店の心を持たせるかということで、そこに意識を集中させなければいつまでも従業員の尻拭いの為に朝から晩まで走り回ることになる。今まで何百という従業員が入っては出、出ては入りしてきたが、それらの従業員の中で最も店の頭、店の心を持ちにくいのが実は教会の食口だったと言うと、不思議がられるだろうか。店にとって彼らは一生懸命に体を動かそうとするけれども、マネージャーに対して何処かうち解けず、何処か他人行儀な面がある。他の従業員に対しても線を引いていて馴染めない。食口でも日本の食口しか雇ったことは無いし、二世も短期間しか雇ったことは無いので一概には言えないが、どうも観、それは大きくは人生観だが、生活観念であったり金銭観念であったり社会観念であったり仕事観念が固定化してしまって店の頭、店の心を準備するに至らない。み言葉が入っているのだから為に生きる姿勢が大切なのはわかっているのだろうが、体を動かすことのみに限られているようで店の為に、マネージャーの為に、他の従業員の為に心を痛めている様子は伺えない。そう言えば日本で歩んでいる時も、追求が激しく自分のことで精一杯なのか他の兄弟を思い遣ったり中心者の前に他の兄弟を弁護したり等といった様子はとんと見受けなかった。兄弟間には冷たく乾いた関係性しか見当たらなかった。ホームも初期の教会の様子と随分違って、愛の家というよりは収容所の趣きの印象が強い。米兵が戦地から国に帰ってきて一般生活に馴染めないトラウマを抱えている者が多いのを聞くが、こと日本食口に関しても長い戦時体制が続いて同じような副作用が心魂に残っているのかも知れない。おそらく私自身もそうなのだろうけれども、原理の人と非原理の人を分けている。分けるのは妥当かもしれないが分けて差別している。み言葉を受け入れ祝福されて祝福家庭となればアベル圏なのだろうが、知ってか知らずかカイン圏を否定的な目、差別的な目で見てしまって、カイン圏の中に入っても行かないし受け入れようともしない。そんな意識でカイン圏を懐柔できるとも思えないし、この世というカイン圏の中で頭角を現すこともできない。

2013年8月30日金曜日

今日の想い 611

日本から離れて随分になるから、よく事情が呑み込めていないけれども、未だに旧約時代さながら強固なピラミッド体制で献金摂理が進められているのだろうか。生活を極限にまで犠牲にすること、中心者からカラスが白と言われれば白だと認めること、そういったことが絶対信仰絶対愛絶対服従だと納得し、本人達の意志で、傍目から見れば奴隷的にも見える立場を甘受しているのだろうか。私も日本にいる間はほぼ、内外共にがんじがらめの状態にあったからよくわかるが、あの状態を生涯続けるとすれば、奴隷信仰を確立するか、それとも完全な奴隷になりきるか、どちらかしかないだろう。しかし願いは願いとして多くを抱えている様子で、何枚もの祈願書を奉じているようだけれども、意志をもたないことを意志した奴隷信仰と、願うという意志を差出す祈願書とを、どう本人の中で辻褄を合わせているのか私にはわからない。もちろん日本が立ててきた基準は世界万民誰もが頭を下げざるを得ない。しかしそれは母として立つ為の犠牲だったはずで、御父様が母の国と認められた今は母としての権威を持つ必要がある。母は奴隷ではない。母の国を背負って立つ食口が先ず旧態依然の奴隷意識を撤廃して、内的な責任意識、責任感情を起こし、外的にもはっきりと声を上げ、御母様と一つとなった位置でみ旨を牽引していく自覚が必要だと思う。今までの枠組みが、基元節を越えて、母の時代、女性の時代に入って、そのまま通用するのかということも考える必要があるだろう。組織体制がそうあるのは御父様の願いから来ているのではなく、願いを受けて実体化する為のツールであって、組織体制というツール作りには宗教的な事柄からどうしても政治的な事柄へと踏み込んでいかなければならない。しかし出来あがった組織体制を絶対としてしまうと政治的支配からは逃れられなくなる。宗教があって政治があるべきで、本末転倒すべきではない。ブログに上がってくる情報のニュアンスをどこまで信頼すればいいのかわからないが、どうも日本の食口の中には内的にも奴隷化されている者がいるように思われる。絶対信仰と鵜呑みとは異なる。絶対服従と奴隷とは異なる。長い奴隷生活で奴隷でしか生きられないとなると、それは悲劇ではないだろうか。

2013年8月29日木曜日

今日の想い 610

反対派の意見として教会側の食口の感情を煽るような言い方をするのは、別に今日に始まったことではない。しかし自分を教会側の位置に立っていると自認する者が、その言い分としては反対派の意見と同じように感情を煽るものがあって、正しいか正しくないかは別としても目糞鼻糞の類と同じようで何とも情けない。教会側に立つと自認するなら同じ面に立つ左に対する右という位置ではなく、反対派の位置から数段高い位置に立って意見して欲しいと思う。反対派に対して義憤の思いで戦う姿勢を取っているのかも知れないが、兄から弟、弟から兄という平面の次元ではどちらも屈服しない。どちらかが父の事情心情に立って相手に対するのでなければ、お互いの論戦に愛は関与せず、一つとなる接点は永久に見出せないだろう。400もある統一教会のブログ村で真理と神霊が関与すると思われるブログは片手で数えるほどしかない。あとは取るに足りないものばかりで、苦労の百科事典の統一教会であれば涙なしでは聞けない証しを持っている食口は五万といるだろうに、ブログとなると、どうしてこうも情けないものばかりが順位を上げているのか、溜息が漏れる。そういう訳で一時はブログ村に入れてもらっていたが、今は誰も寄ってくれない名も無い親父の日記だ。えてしてカイン側の方が知恵もありこの世的実力もある。ソロモンを頂点とする祭司集団はアベルの系統だけれども、ソロモンの神殿を立てたのはヒラムを中心とする石工集団であり、カインの系統だ。石工集団は後にカインの系統としてフリーメイソンへと繋がり、やはり実質的にはカインの系統がこの世を支配している。しかしカイン側は好きでカイン側に立った訳ではなく、それなりの背景があって神様に距離を置く立場、すなわちサタンがより愛する立場に立ってしまったということだ。その背景を問うことも無く一方的にアベルの威厳をかざしても、失敗してきた摂理をいくらでも繰り返すことになってしまう。反対派が現れた事、グループが現れた事、それは以前の摂理でアベルとカインが一つになれなかったが故であり、彼らの出現にアベルも十分に関与していて他人事ではない。しかし、その認識が無い。謙虚さが無い。カインがアベルを殺すまでに至った、あの世紀の因縁があらゆる場面で息を吹き返している。カイン圏にはカインが生きて働いている。アベル圏にもアベルが生きて働いている。遠い太古の話ではない今の今もアベルとカインの戦いは再現されている。母子協助時代は父を立てる為であったけれども、父が立った今は父子協助時代であり父が協助して母を立てる時代だ。皆は未だに御父様により意識が向いているようだけれども、全ては御母様に御母様に意識が向かわなければならない。御母様を立てるために御父様は全面的に協助されておられる。母が立たなければアベルとカインは一つになれない。母が中心となってこそアベルとカインは一体圏に立てる。聖霊実体であられる御母様に意識を向けるのでなければカイン圏の位置からも追い出されて隔離される、すなわち現代的島流しの憂き目に会うだろう。

今日の想い 609

み言葉で審判される。み言葉を訓読し、理解に及べば及ぶほどみ言葉が私を裁く。私は項垂(うなだ)れるほどに愛の減少感を覚える。御父様との遠い距離を、愛の光の届かない位置を、自覚させられる。それでも出来得る限りのみ旨への献身を自らに強いる。それで減少感が満たされるというものではない。アダムとエバへ向かう神様の愛に比べて、もはや自分へは見向きをされない神様のように思えたルーシェルほどではないにしても、それでも愛の減少感で私の心は空洞となり冷たい風が吹き抜ける。多くの兄弟達が去って行った。この道に自分が求めるものはないと結論付けて去った兄弟もいるだろうが、弱さを克服できずに、着いて行くことができなくて去って行った兄弟が殆どだろう。彼らの気持ちならよくかわる。私はと言うと、しがみついたままここまで来て、今は僅かに引っ掛かったまま、いつ吹き飛ばされるのだろうかと案じている。み言葉を必死で読み解きながら、箸にも棒にもかからない私の家庭であっても、それでも祝福家庭として勝利圏を相続できる何らかの道は残されているはずだと躍起になって探すのだけれども、み言葉を理解すればするほど、み言葉が私を裁く。相対が絶対信仰に立てないのも結局私の責任だ。相対が立たなければ子は母と一体なので子も立たない。三代を祝福して家庭的基盤を築かなければ真のオリーブの木の実は収穫できない。霊界の先祖はよくわかっていて、実体を持たない先祖は何とか目覚めて欲しいと妻を打つ。執拗に打つ。しかしどれだけ打たれようとも些細な条件にしかならないだろう。それでも打たないよりは打ったほうがいいということだろうか。私も妻も気を許せば崩れ落ちる。辛うじて持ち応えているけれども、バランスを崩す何らかの横的力が働けばひとたまりもないだろう。兄弟達は、自分は人間でルーシェルとは違うと思っている。天国に直行できると思っている。しかし文明に、三代圏が立ち氏族復帰を為した兄弟とそうでない兄弟は位階が異なる。霊的な地位が異なる。アダムエバと天使長ルーシェルの位階が異なるのと同じだ。位階が異なれば愛の減少感を覚えるのを越えて、第二第三の位置で勝利に近い兄弟達を支えていく使命を担う。とにかく勝利する氏族メシヤを一家庭でも多く輩出するのが天の願いだからだ。神様が認定するアベルの祝福家庭がある。アベルに認定されなければカインの祝福家庭になる。だからと言ってカインとして分けられた寂しさにうち沈んでばかりはおれない。アベルを支えアベルが勝利することで一体圏のカインも引き上げられる。自分や自分の家庭が見捨てられてしまったようで、教会に対して反感を覚えたり、これだけ頑張ったのに実らないと落ち込んだり、いろんなカイン的感情が噴出するだろう。しかし全てがアベルになれる訳ではない。カインの位置に立つ運命だったと理解し、カインの位置で貢献できることに感謝もし、この世の先頭に立つのはカインの祝福家庭だ。この世的実力もつけ、この世の先頭に立ってアベルの祝福家庭を支えて行く。

2013年8月27日火曜日

今日の想い 608

時として、祈祷した後の自分に嫌悪感を覚える。心がすさんで不純な憤りや不満がくすぶり続けているのに、心にも無い乾いた言葉を繋ぐことで自分を誤魔化している。そのことに嫌悪感を覚える。胸糞が悪くなる。形だけはこうべを垂れて謙虚な言葉を口にする、数え切れない祈りの中で、どれだけ神様に通じるものがあっただろうか。いや、本当は己を偽る醜い言葉の羅列など、神様に届いて欲しくないし聞いて欲しくも無い。皆の前で公に祈祷する場合はどうしようもないけれども、嫌悪感を残す祈祷など祈ったことにはならず、それどころか現実の自分に対して更なる呪いを事実上かけている。或る日の日記では祈祷の重要性を訴え、そして今日はというと、どうせ祈祷にならない祈祷しか出来ないなら辞めてしまえと真逆なことを訴える。神様に向かい、神様とひとつになる対象の位置に立ちたい心情動機が祈祷に向かわせるなら、私は先ず偽りのない自分を用意しなければならない。私の中に燻ぶり続ける堕落の血に流れていたものが見受けられるなら、それ故に神様の想いが子への愛が直接に通じない、その苛立ちと腹立たしさを込めて悔いて改めなければ対象として神様の前には立てない。神様へ向かわせる祈りも、我知らずサタンと協議して己を貶める呪いも、同じこの表情でなし、同じ行動でなし、同じようにこうべを垂れて祈祷する態度でなしている。巧妙な蛇が気付かれないように血流の中で蛇行する。鳥肌が立つほどに蛇を忌み嫌うのは、それを見ることで私の中で蛇行する蛇を無意識にも自覚しているからだ。習慣的な生活に没したままで、祈祷できるほどの姿勢は正せない。習慣というサイクルに、リズムに、既に堕落的なものが流れている。天暦(陰暦)を中心とし、安侍日を中心とし、訓読時間を中心として天的なサイクルに、リズムに合わせられる自分を再創造しなければ、この世の生活圏と何ら変わりは無い。一方では絶対信仰絶対愛絶対服従の核と一つになろうとする報告祈祷と、今一方では天的サイクル、リズムパターンを生活圏として当て嵌めて、両方からの挟み撃ちではもはやサタンが介入できる隙間はなくなっていくはずだ。

今日の想い 607

体は痩せ細っていながら、顔と足だけは膨れていた妻だったが、それが浮腫(むく)みの為だったことを再度確認させられた。最近また透析が始まり、浮腫みが引いた足は以前の半分になった。半分になった彼女の骨々しい足を揉みながら、元気で若々しかった頃の彼女の姿を思いだそうとしても、どうしても思い出せなくてうろたえた。ノースカロライナの小さな町で家庭を出発した頃の妻、食口達が日本に引き揚げて店を営業する為に二人で走り回っていた頃の妻、子供が生まれて育児に忙しかった頃の妻。思い出せない。映像としては脳裏に浮かぶものはあるけれども、その時の実感情をありありと再現できない。肉体は生きていても、感情の深み、心情として植え付けるほどの深みに刻む心情生活を送っていなかった。どうしても離れず、胸の内に焼き付いている感情は、妻が病気になった頃からのものだ。人間は痛み苦しみについてはその感情をしっかりと心魂に刻んでいる。しかし歓び楽しみについてはなおざりで、心魂に刻むほどの特別の感情として味わってはいないらしい。だからどうしても人生を振り返った時に、辛く苦しい人生だという印象の方が強い。日々の些細な出来事や出会いは、自分が気付かないだけで、実は心魂に刻みつけるべきほどの歓び楽しみに満ちているのだろう。確かに子供が生死を彷徨うほどの熱を出した時、いくらか回復して一匙流入食を口にしてくれた、あの些細な出来事に思いだせる喜びの感情は強烈だ。私の人生が光輝き、恍惚とも言えるほどの歓びの感情の数々、受け取る心情の数々を霊人体の霊的感性、霊的骨肉にして霊界生活を送るのだろう。妻の痛みが、骨肉を削る犠牲が、夫としての深い気付きを、さらに家庭としての気付きを与えてくれたのであり、些細な出来事から奇跡と思えるほどの歓びや楽しみの感情を引き出してくれる。妻も元気で不自由のなかった頃が、実は心魂生活としては最も不自由だったのかもしれない。霊的心情的感性の不自由な存在だったから、思いだそうとしても見当たらないのだろう。それでも霊界に旅立つときには、全ての出来事を振り返る。今は見当たらずとも、心魂に刻まれた全ての出来事を振り返りながら、霊界に持ち込める心情を確認する。

2013年8月26日月曜日

今日の想い 606

絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、生殖器に対するものだというのが1999年の絶対信仰絶対愛絶対服従の核、そして二十節のみ言葉だ。この地上には男がいて女がいる。男は女を求め、女は男を求める。そうして男と女、求めるお互いを組み合わせようと思えばどのようにも組み合わせられる。一夫多妻でも多夫一妻でも好きなように組み合わせられる。一つの凸にただ一つの凹しか合うことは無いとするなら堕落は無かったのだろうが、一つの鍵で開けようと思えばどんな鍵でも開くというところに問題がある。一つの凸に一つの凹という天法を生涯守り続けることは、誘惑の多いこの地上では、時に至難の業だろう。それでも生殖器にどう対するかが中心の中心、核に違いない。わざわざ堕落できる環境に置かれたのがアダムとエバであり、人間の位置だ。生殖器の使用を誤れば霊的生命を失うとしても、一方で生命を凌駕する愛という課題があり、堕落できる環境があり、そして選択の自由がある。愛がどう実を結ぶかで偽りの愛と真実の愛に分けられ、それは環境要件と選択の自由に依る。この愛と環境と自由の関係性で人間は自分の存在領域、存在の在り様を決めている。愛を感覚的なもの、それを地上的なものと言い換えてもいいが、愛を感覚的なものだけに向かわせたのがサタンの業だ。よって堕落人間は愛の本質がわからない。愛という言葉はみ言葉の中で最も多く見出せる言葉の一つだろう。しかし愛という言葉をどれほど繰り返しても、感覚的愛という視点の周りをうろつくことしかできない。私達には不倫の関係を良しとしない感情が働いており、フリーセックスを良しとしない感情も働いている。しかしその感情は偽りの愛によるものではないにしても、やはり感覚的愛を足場にはしている。だから御父様の不倫ともフリーセックスとも思える行動が感情として理解できないでいる。真の愛の本質には未だ近付けないでいる。真の愛と偽りの愛の本質的な違いを受け取るには至っていない。神様御自身が絶対信仰、絶対愛、絶対服従を立てられた。その言葉の背後には絶対信仰に至る戦いと過程があり、絶対愛に至る戦いと過程があり、絶対服従に至る戦いと過程があって、勝利されたからこそその言葉の核となられたはずだ。勝利された夜の神様だからこそ昼の神様に創造の御業を預けられた。何でもありの様々な神話をどう読み解くかだが、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の核となるまでの神界の戦いだと私は読み解く。

2013年8月25日日曜日

今日の想い 605-2

人間は明日を待っている。来る日も来る日も明日を待ち続ける。今日という日に為せないことを明日に引き延ばせると思って今日を生きる。そうやって来る日も来る日も明日の日を当てにして生き続ければ、今日という日に為すと決意する私の意志は固まらない。御父様からの指示命令を受けながら明日という日を当てにし続けて為せなかったように、延長7年だと御母様から言われても、同じように明日という日を当てにし続ければ結果は同じことだろう。私達は、少なくとも私自身は、私達自身が変わらなければ結果は明らかなことを薄々感じている。それを信仰とする信仰まがいの蓋で覆ってしまって見ようとせず、恐れも知らず願われる結果を差出しますと口にする。口にしながらできない感情、やらない意志が内蓋に覆われて煮え滾っている。どうすれば結果を残せるか。そう考えるのは明日を期待し、明日を待ち、明日に引き延ばそうとするやらない意志以外の何物でもないだろう。堕落人間にとって明日があるという認識は、神様にとっての希望ではなく神様に取っての怨讐なのかも知れない。堕落した位置から本然の位置に引き上げられた祝福家庭にとっては、明日があるという認識は怨讐に違いない。今日というこの日しか残っていなければ、無我夢中でやるであろう責務を、明日という日が半永久的に続くと期待して薄い一日を送り続ける。けれども事実は、今日と明日とは文明に異なる。明日を期待できない今日だとわかれば無我夢中にならざるを得なくなる。御父様が数理を把握され、それは時間的には年の意味を、月の意味を、日の意味を把握され、多くを宣布されたその日はその日でしか勝利宣布できなかったのであり、宣布によってはその日その時間、一分一秒にまでこだわって宣布されたものもある。「平和の主人、血統の主人」の冒頭に記されているように、私達は習慣性を中心として、今日も昨日の時間が延長したものだと思っている。明日への引き延ばしは今日という一日の霊的意味がわからない、習慣性というサタンに毒されている私達の習性だ。悠長に、どうしたら結果を残せるかと習慣性にはまったまま思うのではなく、明日に引き延ばせない今日やるべきこと、今日できることが確実にあり、それに精誠の限りを尽くすのみだ。今日を生き切ったと言えてこそ、御父様が全て為したと断言された中心に向かっている。

今日の想い 605-1

どうすれば結果を残せるだろうか、と誰もが問うだろう。私達に対する御父様の願いに対して、どうすれば結果を残せるのかという問いを発することが自然の流れだと信じているが、本当にそうだろうか。私達は今の今まで断続することなく問い続けた。どうすれば結果を残せるのかと、、。しかし私達が認識する結果としての表象が、御父様の願う表象と本当に同じものなのかと問わなければならない。その前に先ず、どうすれば結果を残せるだろうかと問い続けた結果が、結局結果を残すことになっていないという事実を認めなければならないだろう。私達は第四アダムとして報告祈祷で神様と御父母様に対している。しかし、どうすれば結果を残せるかと問う姿勢は、報告祈祷する報告の材料にはならないことを先ず認めなければならない。出来ないと思えることを出来ると信じても、それは本当に信じたのではなく、出来ない責任を負わずに責任回避したに過ぎない場合が殆どだろう。結局本当の信仰とは、私達は何の疑いもなく神様の業を信じ霊界の協助を信じると言うけれども、神様も霊界もその認識が曖昧なままでは信仰も無責任も同義語になりかねないし、結局本当の信仰は自らを信じれるかどうかにかかっている。自らを信じれるかどうかが、私の中に働く神様を信じることであり霊界を信じることだろう。よって、どうすれば結果を残せるだろうかと問う姿勢は、結果のみが欲しいという自分よがりの動機が巧妙に隠されていて、そうであればそこから結果など湧き出るはずがない。御父様の願いは、それが氏族復帰180家庭のように数値で示されたものであったとしても、それは方向を指し示されたのであって、どうすれば180家庭という結果を残せるかと問えばどうしても結果に対する執着、すなわち自己中心的動機が関与する。自己中心的動機を排除して、為に生きる動機が徹底される為には、方向性は考えても結果は神様に任せるしかなく、結果がでないと憂うでも結果がでたと誇るでもなく、踏み出す一歩に精誠を込めて為に生きることができる私を追求するのみだ。全て為したと言い切られて聖和された御父様と、今の状態が全て為したことになるのかと疑問を挟む私達と、その違いはなんだろうか。勿論霊的な事実がわからないこともあるが、そう説明してもそれは意味をなさない。先にも触れた第四次アダムという認識、御父様の勝利圏を相続し、み旨を引き継ぐ者としての第四次アダム。第四次アダムである私達がみ旨を引き継ぐ以上、為し得ていないみ旨がそれぞれで残っているということだ。しかし引き継ぐみ旨が為されようが為されまいが、御父様の勝利圏は揺らぐことが無い。それが全て為したと断言される所以だろう。それでは私は御父様が断言されたように断言できる第四次アダムとして、どうなれば私の勝利圏は揺らぐことが無いと言える私になれるか。無責任や自分を慰める言葉としてではなく、確信的な言葉としてそう言える私になれるか。

2013年8月23日金曜日

今日の想い 604

パソコンのスクリーンから一周年追慕式の様子が伝えられ、それに対していた。その向こう側のソファーに横になった妻は、顔をしかめて痛みに耐えていた。追慕式で見受ける御母様の表情と、向かいの妻の表情とは対照的だった。本当は妻の病状が心配で、落ち着いて追慕式に同参できるような私の状態ではなかったが、それでも体はスクリーンに向いていた。スクリーンに向いて固く腕を組んでいた。どうしていいかわからないとき、自分がいつも取る態度だ。固く腕を組んだまま動かず、口は堅く結ばれたままだ。病との闘い、痛みとの戦いに明け暮れる妻に対して、私は為すすべがない。その戦いの相手は私の手に負えない。病や痛みとの戦いに何の意味があるのかもわからなくなってきて、妻に対して声もかけられない。かといって先祖や神様に対して駆け寄り言い募れるわけでもない。それは彼女自身が意志することだ。体はパソコンに向いたまま、悶々としたものを抱えながら今日を終える。一部も二部も終ったスクリーンを、見るともなしに見続けながら今日を終える。このまま心配で寝付けない夜を、寝るともなしに横になって過ごす。塀のない監獄、鉄柵のない監獄に二人とも身を置いている。一年前、聖和式に二人で参加した。まだ妻はそれなりの動きは取れたが、80や90の老人にも覚束ないほど足腰も心臓も弱っていた。流れる人の波から彼女を庇いながら、何とか無事に帰ってこれて安堵した。一年が経った今、また透析が始まった。一年が経った今、それでも妻は生き続ける。鉄柵のない監獄生活を生き続ける。基本的に彼女は強い。頑なでもある。どんな状況でも押し黙って耐え、憂いて涙を流すこともない。私なら泣き喚きもし、どうしてこんな目にあわされるのか、納得するまで神様に談判する。問い続けて神様を離さない。しかし彼女にそれはない。どうしてこうなったかの外的要因を問うだけであり、どうしたら良くなるのか機械的な判断に任せるのみで内的に深く問うことはしない。機械的唯物観に留まったままで、霊への不通(プトン)を見抜けないでいる。先ほどまでスクリーンを通して見えていた、御母様の表情に見るみ旨に対する願いがある。その一方で痛みに歪む妻の表情があって、私は現実の奈落の底に対している。天国と地獄の両方が私の手の届くところにある。

2013年8月22日木曜日

今日の想い 603

エデンの園とは何か。御父様が言われたエデンの園とは、アダムの体とエバの体が合徳したのがエデンの園であると、み言葉としてはっきりと話されておられる。そうして蛇とは男性の生殖器を指すとも話されている。地上天上天国が為されればそれはエデンの園に違いないだろうし、地球に世界平和が訪れればそれはエデンの園に違いないだろう。それをエデンの園とは言わないとは御父様は仰られないはずで、それで私達はエデンの園をどう理解すればいいのかと言うと、アダムの体とエバの体が合徳した位置はエデンの園の中心核だと理解できないだろうかと言うのが、極めて正解に近いと思っている私の仮定だ。天一国も同じように捉えて理解できる。御父様が説明された天一国は二人が一つになる国という意味だが、神様の祖国と故郷は韓国であると宣布されたその祖国という概念を天一国の概念と混同してしまうと私達の理解も混乱してしまいかねない。私達は未だに地上的な概念、外的な概念が先ず頭をもたげるが、地上の外的な事柄は全て結果内容であって、御父様のみ言葉の全ての概念は内的霊的事柄で形作られている。結果内容で概念形成するのではなく原因内容で概念形成が為されている。霊的無知の位置から霊的知を取り戻していかなければみ言葉の本質の理解に入ってはいけない。韓国が神様の祖国であり故郷だけれども、南北統一が為されればそれも祖国であり、そこには天一国の概念が生きている。さらに父の国、母の国が一つになればそれもまた祖国であり、そこにも天一国の概念が生きている。そうすると韓国は祖国であるけれども祖国の中心核と理解できる。父の国、母の国、そして息子の国が一体圏であり、そこにも天一国の概念が生きている。二人が一つになるという天一国、アダムの体とエバの体が合徳したエデンの園、それは内的霊的には同じ意味だと言えないだろうか。アダムとエバは堕落してエデンの園から追放されたけれども、真の父母は勝利されて天一国という内的霊的エデンの園を再創造された。そうして祝福家庭は真の父母の勝利を相続して外的地上的エデンの園、天一国の実体圏を実体化するみ旨を為していく。

2013年8月20日火曜日

一周年

地位や名誉や財産、そういった外的なものを求めてこの道を歩もうと決意した者は一人もいないだろう。しかし外的なものではなく内的な幸福感や喜び、精神的な欲望が満たされるはずだとこの道を歩み始めた者は多いはずだ。一人残らずそうかも知れない。しかし内的な犠牲がどこまでも続き、壮年期を越えて初老に入ってくるとさすがに、この内的犠牲を超えていくうちに幸福感や喜びに満たされるという期待も持てなくなってくる。持てなくて当然だ。内的な犠牲は何処までも続く。それは地上の生を終えるまで途絶えることはないだろう。御父様自身がどれほど内的犠牲を供え続けてこられたかを問えば、子である祝福家庭が内的犠牲を供え続けるのは父に従う者として当然だろう。聖和される直前となると、地上を離れれば犠牲を供えられないとばかりに更に犠牲を強められ、犠牲に拍車をかけられ、その凄惨を極める御父様の最後の生き様を私達は見届けた。人間は誰しも幸福を求める存在だけれども、地上的な幸福という概念を持つことを私達は許されない。私達が幸せになることが聖和された御父様の願いだと、そんな間抜けな地上的な認識をもつ食口は実におめでたい。そう本気で思えるとしたら本当にうらやましい。真の愛はそんなおめでたい立場とは全く関わりを持たない。真の愛は、これでもかこれでもかと自らに強いる内的犠牲への意志を差し出す者だけに関与する。今の時点では、真の愛と内的な幸福感や喜びとは一致しない。私の妻は、私の夫は、み旨のためにこんなにも悲惨な死に方をしましたと言えることが誇りであるとまで真の愛の御父様が言われたのに、それが内的な幸福感や喜びと言えるだろうか。それは悲惨な犠牲でしかない。もし統一食口が幸福感や喜びを受け取ることを許されるとすれば、それは地上の生を終える寸前だ。為に生きる戦い、犠牲を供える戦いを終えることを許されるその時こそ、霊的生に繋がるその時こそ、私達は安堵しながら、最後であって最高の幸福感や喜びを受け取るだろう。そうしてその至高の喜びのまま地上を離れて霊界への門をくぐって行く。御父様は聖和の門を開くために、死の瞬間までも犠牲を供え続ける意志を差し出された。私たちはその恩恵に預かって、死の瞬間は至高の喜びに包まれる。この世の者達は地上の生を謳歌するけれども、死が近付くにつれて死の恐怖が迫ってくる。彼らにとって死の意味はまさしく死だ。しかし私達は地上の生を生きて死の道をいくが如くに歩んできたが、私達に死は無縁であり死はない。その代わりに昇華であり聖和だ。早いもので御父様が聖和されて一周年を迎える。この一年を通して、私達は霊的無知を克服しながら多くの霊的叡智を受け取ってきた。途方に暮れて泣き喚いていたあの時の私と、一周年を経た今の私とは、霊的背景も霊的晴れ具合も格段に異なる。しかしそう思える今が何と無知で幼かったことかと思えるほど、次なる年、更にその次なる年には累加乗的に霊界は開けてくるはずだ。

2013年8月17日土曜日

第四次アダム心情圏時代 (2)

今の時代が第四次アダム心情圏時代だというはっきりとした認識を持って歩んでいる食口が、どれだけいるだろうか。第四次アダムとは誰なのかもわからなければ、そうであれば第四次アダム心情圏時代に生きる認識も勿論ない。私達は今、祝福の中心家庭の名で報告祈祷している。簡単に言えば第四次アダムとなったからこそ祝福の中心家庭の名で報告している。形だけはそうしているが、形が本質を伴ったものであるかどうかは報告祈祷する私達一人一人、あるいは祝福家庭それぞれでしかわからない。皆が十派一絡げで、或る外的条件を供えれば第四次アダムであり、皆が同じ第四次アダムの心情圏に生きているとは言えないからだ。勿論、総生畜献納を収めることが第四次アダムの位置に立てる条件ではあるけれども、条件は条件であって、それが等しく第四次アダムとして生きることとはまた別問題だ。第四次アダム心情圏時代に対比される時代が、それ以前の救援摂理時代だ。救援摂理時代は報告の時代ではなく祈祷の時代であり、報告は善の結果という実を供えるのであって、ただの祈祷のようにひたすら答えを求める姿勢とは異なる。御父様は、み旨をなす代行的機関を御父様から引き継いだのが祝福中心家庭であると言われたのであり、そうであるなら求めるだけの祈祷に留まらず、み旨にプラスの藁一筋でも供えて報告する必要がある。第四次アダム心情圏時代とは、先生が皆さんの家庭に対して関係を結ぶのではなく、皆さんが先生と関係を結び神様と関係を結ぶ時代だと御父様は言われた。祈祷という受動的な私や私の家庭ではなく、報告祈祷という能動的な私や私の家庭とならなければならない。何か貰えるものを待って御父様に対するのをやめて、何か与え供えるものを差し出して御父様に対する。受動的ではなく能動的な姿勢に私が変わらなければ第四次アダムとして生きてはいない。祈祷は、(1)最初は真の父母の御名で祈祷したのであり、(2)それから真の父母様の勝利圏を祝福で受け継いだ私の名で祈祷するのを経て、(3)今は祝福の中心家庭の名で報告祈祷している。(1)最初は完全な受動的姿勢であり私の主体性は全くない位置から、(2)サタン圏から断絶隔離された位置で勝利圏を引き継いで、(3)今はみ旨に対して主体性を持った私の位置で歩んでいる。お前を勝利圏に既に立てた、後のみ旨をお前に引き継いだと言われても、困惑し通しの私達であることは御父様は百も承知だろう。しかし神様の子女であるという人間の人間たる所以はおそらくそこであって、手を出さないからお前がやれと言われて、やるかどうか、結果を残すかどうかを私に見ておられる。食口それぞれは困惑期であり教会は混乱期だけれども、ここを踏み越えれば必ず霊界への主管性を取り戻し、そうすれば地上界への主管性も取り戻し、私達は名実共に第四次アダムとして立つことができる。

第四次アダム心情圏時代 (1)

今に至って、食口たちはこの何の地上的見返りのない道をよくも選んだものだと思うかもしれない。そういう自分もその一人なのだが、、。無知は死の領域だけれども、無知なればこそこの道を選ぶことが出来た。そして歩む過程でその都度その都度摂理とみ旨への理解を少しづつ修正しながら今まで歩んできた。もし騙されるのなら死ぬまで騙され続けられる方が幸せだと思うかも知れないが、無知は何処までも死の領域なのであって、その価値がわからず悶々としたものを抱えたまま歩める時代は既に過ぎ去った。御父様が聖和され、基元節を超えて、基元節は摂理の完了とまで言われていたのだから、そこまでは信じて歩んでいこうと決意した者も多くいたはずで、そうなると基元節を超えてしまって、外的には何も変わり映えの無い今、さすがに今までのように盲目的ではいられなくなる。自分の内外の実情を秤にかけて比較もし、計算もして、これからの進路を考えようとするだろう。それは致し方の無いことだとは思うけれども、天の意志と、そういった私の生活意志という二つの柱があって、天の意志を主体に立て私の生活意志が天の意志に侍ってこそ生活意志はみ旨となり得る。そうあれば天の心情圏内だけれども、二つの柱が乖離して行き、終いには天の意志という柱を私の中から捨ててしまえば、それは離れて落ちていく70%の食口のひとりに数えられることになる。摂理を担うという誇り、み旨を成し遂げるという責任感が薄れて行くということは、私の生活意志がいつのまにか主体になり、天の意志が二の次になった、さらには、天の意志が薄らいで私から消えて行くことだ。御父様が私の中で生きて働いておられるか、或いは心情が心魂に根付かず成長を見ずに枯れたのか、そのどちらかを見極められる期間に私達は置かれている。御父様の子女なのかサタンの子女なのか、羊なのか山羊なのか、甘柿なのか渋柿なのか、第4次アダムとして立つのかどうなのか、それを今だからこそ見極められている。

2013年8月14日水曜日

今日の想い 602

死が地上の生の対極にある限り、死は死でしかない。生まれ来る不思議と死に逝く不思議。毎日産まれ来る生命があり、毎日死に逝く生命がある。それは等しく、毎日生まれくる細胞があって、そして毎日死に逝く細胞がある私の身体で起こることと同じだ。古い細胞が新しい細胞に取って代わらない限り、私の身体は生を維持できない。そうなると細胞は使い捨てられて終わりかと問うてしまう。役を終えた細胞の生命は新しい細胞に引き継がれる。私の生命は次の世代へと引き継がれる。引き継がれるのであって生命が途切れる訳ではない。私の心魂という精神的存在も次なる使命者に引き継がれる。御父様は血統の重要性を語られている。血統はその血縁的引き継ぎだけを言われた言葉ではなく、内的霊的血統をも考慮に入れなければ、敢えて言えば内的霊的血統として理解するのでなければ、み言葉の辻褄が合わなくなってくる。親子を考えた場合、親から子へ、体質であるとか身体的特徴であるとか血縁的に引き継いだ部分もあるけれども、しかし子の内的霊的な特徴は親にもなく、時には親と対極的な内的様相を備えている場合もあって、それは不思議と祝福家庭にその要素が強いのだが、その場合、内的霊的な特徴はどこから引き継いだのかという問いが出てくる。この疑問にこそ論理的科学的に取り組むべきであって、血縁血統は重要視しながらその流れからは見出せない内的霊的なものを子や孫が担っている事実があり、その現実をぼんやりと眺めているだけでは血統の本質的意味は理解できない。祝福家庭は御父様の血統圏ではあるけれども、血縁的血統とは異なる。遺伝子という外的素養を受け継いだのではなく、心情という内的素養を受け継いだ内的霊的血統圏だ。御父様の血統圏を血縁だけに拘るのであれば、祝福重生による血統転換は絵に描いた餅になってしまう。イエス様には二つの血統がある。マタイ伝に記されている44代のソロモン系の血統と、ルカ伝に記されている77代のナタン系の血統だ。(二人のイエス様と御父様 2012,12,07参照) ソロモン系の血統は血縁的血統であり、ナタン系の血統は内的霊的血統だ。心情の引継ぎが血縁的血統を越えてどうバトンタッチされるのかは定かではないにしても、それぞれの宗教の時代時代を引き継いできた影響圏も、血縁的血統ではなく内的霊的血統が流れている。ミクロコスモスが人間であるように、マクロコスモスも一人の人間様相で活動している。私は自体自覚の位置では死は死でしかないが、他体自覚に立つ、すなわちマクロコスモス人間意識が持てるなら死は昇華であり、新しい意識を持ったマクロコスモス(包括的)人間の誕生だ。血縁的血統が私という地上存在たらしめ、生きる上で多大な影響をもたらすように、内的霊的血統が霊的存在たらしめ、霊界を生きる多大な影響をもたらす。自体自覚という、意識が個に留まる限り、死は死でしかない。

2013年8月13日火曜日

祈りという姿勢、態度

祈りとは、人間の最も能動的な姿勢だ。最も創造的な姿勢だ。祈りと思考、祈りと行動、祈りと感情、そして祈りと生活。それぞれの関係性は時間を隔てた原因と結果の関係ではなくて、祈りの姿勢で思考し、祈りの姿勢で行動し、祈りの姿勢で感情し、そして祈りの姿勢で生活する。そうすると思考が祈りであり、行動や感情が祈りであり、生活自体も祈りだ。祈りの姿勢で生に臨むのであり、祈りの姿勢で死に臨む。そうすると地上の生を越えた真の生命として生きるのであり、地上の死を越えた昇華を担うようになる。受動的な姿勢でいる限りは、新たな創造も再創造も為されない。心魂の活動や生活そのものを創造的にする為には祈りの姿勢を備える必要がある。しかし人は、祈りがわからない。祈りの概念が備わっていない。信仰者を自任する者は祈りの形だけは取り入れているけれども、それは本当の祈りではない。人が霊的無知に陥っているように、祈りという神霊との対話に関しても霊的無知だ。祈る境地で対話に至ってもいないし、神霊への呼びかけに至ってもいないし、祈りのステージにすら立ってもいない。祈るステージに立つ内的態度さえわからない。原理への論理的理解から信仰に入った食口の課題は、唯物的思考や唯物的姿勢や態度に留まったまま信仰生活(もどき)をしているものだから、内的霊的な成長体験にかける。本来は生活自体が内的霊的成長体験そのものだ。要するに祈りがわかっていない。祈りの力が備わっていない。どれだけ信仰生活を長く続けていても、未だに神様や霊界を実感的に体得できずに、抽象的であり非現実的な観念と妄想生活から離れられない。集められた私達が御父様に対して申し訳ないのは、実績云々以前に、堕落的であり唯物的であってみ言葉に噛み合わず、祈りの姿勢でみ言葉の本質を受け取るに至っていないことが申し訳ない。

2013年8月11日日曜日

妻の入院

「兄弟みたいだね。」 何度か御食事の要請を受けて、夫婦二人で御挨拶させて戴いたとき、御父様はそうおっしゃった。アダムとエバが兄弟であり双子であったように、妻と私も兄弟であり双子だ。双子は二人で一つだ。どうりで妻の足りないものを私は授かっており、私の足りないものを妻は授かっている。一つであれば、妻の負債を私が蕩減し、私の負債を妻が蕩減することでもある。妻の負債は少ないので私の蕩減は少なくて済み、私の罪と負債は多いので、その分妻の蕩減は多くなる。その日、体調の悪化を口にしながらも往復二時間近くの運転で検査を終えて大学病院から帰ってきたばかりだった。電話が掛かってきて直ぐに救急の方へ引き返せと言う。検査数値が悪すぎたらしい。言われるままに疲れた妻を乗せて病院に引き返した。そうして妻の入院生活がまた始まった。痩せた胸板にコードが何本も繋がれ、細くて枝のような腕からいくらでも血を抜き取られる。貧血が酷いのに一向に構うことなく抜き取られる。呼吸も浅く、救急につれて行ってから一晩おいた今日、様子を見に行くと酸素の管が鼻に刺さっていた。それを目にしたとき、一瞬でかつての痛々しい感情が胸の内に蘇った。夫婦だから、兄弟だから、そして双子だから、私の蕩減を妻が背負い、何度も血を抜き取られながら病苦として払っている。今まで何度腹を割かれただろう。侍の時代でもないだろうに、今は医者が侍に代わって腹を割く。私は妻に気の利いた言葉のひとつもかけられずに、ただ佇んでいるだけだ。寒くも無いのに背中がぞくぞくする。悪霊なのか何なのかわからないが、お前の罪を背負う連れ合いを見ろと、小突いて呟いているのがわかる。その呟きが背中をぞくぞくさせる。私は祝福を受けた。祝福を受けて、半分の私の、太古に離別して幾星霜も離れていたもう半分に奇跡的に出会えた。出会えたけれども、半分になった二つを元の一つに戻す過程で私の蕩減を妻が背負うことになった。夫婦は一体だ。地上の生を越えても永遠に一体だ。再び地上生を生きるとしても離れずに一体だ。私の暑苦しいほどに熱を帯びた血の循環が、ブースターケーブルでも繋いだように、今の今でも彼女に繋がれて充電されればいいのに、、。私の身体と妻の身体が、熱を帯びて気体化し、身体としても完全に一体になれればいいのに、、。

2013年8月4日日曜日

愛の減少感

開かない門がある。無理に開けようとしても返って開かなくなる。地の底の牢獄に捕らえられたまま抜け出せないままで、そこでは陽の光がどういうものかさえ忘れ去られる。解放圏、釈放圏の時代に生きながら、未だにその言葉とは無縁な所で生きている。陽の光がどういうものかさえわからないのに、それなのにどうして陽の光を求めることができるだろうか。神様の愛がわからずに、どうして神様の愛を求めることができるだろうか。何の罪を犯したのかわからないが、どう蕩減すれば抜け出せるのかもわからないが、何もわからない位置で苦悶を重ねる。諦めればある程度は楽になる。仕方が無いと、求めることを止めれば苦悶を抱いたままで苦悶をなだめながら生き続けることができる。そうやって人は高みに向かう為の翼を自らで挫いてしまう。本人の意志の関知できないところで重たく背負わされたものがある。背負わされた背景に愛があるとは思えない。どう理屈を捻じ曲げたら苦痛と愛が通じるのか。苦痛はどこまでも苦痛で、愛が苦痛をもたらしたのではなく、苦痛が愛をもたらすのでもない。苦悶し、苦痛を受けながら愛の減少感を覚える。ルーシェルが愛の減少感を覚えて堕落させたように、愛の減少感を覚えるのは天使長の位置に置かれた立場だ。この愛の減少感をどうやって乗り越えるか。堕落の天使長ではなく勝利の天使長にどうやってなるか。個人の背負った重荷は個人でいる限りはどうあがいても重荷でしかない。家庭の重荷は家庭でいる限りはそれも重荷でしかない。私自身が位相を上げて変革しなければならない。私の重荷は家庭に立つことで重荷は別の顔を差出し、家庭の重荷は氏族や血統圏に立ち、あるいは国に立って私が次元を上げれば、重荷は別の顔を差出すはずだ。御父様が神様の位置に立つなら、再創造の摂理を担い、創造理想を掲げて共に働いてきた私達は御父様と共にある天使長や天使の立場だ。今私達はあらゆる側面で愛の減少感を覚えている。開かない門の前で途方に暮れている。それでも、愛の減少感を覚えて堕落させたルーシェルの二の舞を踏むのではなく、逆に愛の減少感を逆手に取りながら勝ち取っていける道がある。それは既に御父様御自身が通過された道だからだ。

今日の想い 601

書き続けるという意志を繋いでいるが、私に取って書き続けることは御父様への不断なる問いかけであり、理解したものを書くのではなく、ましてや私の中に備わったものとして書くのでもない。しかし書き続けるという不断なる問いかけを継続しながら、み言葉理解という思考に働きかけるものを受け取り、心情という情に働きかけるものを受け取り、更に生きることの熱、生活意志として意志衝動に働きかけるものをも受け取る。み言葉ではないから、書いたことが結論ではなくて、全ては仮定と言っていいかも知れない。仮定が立証されるまでは神様がとる言葉なのかサタンがとる言葉なのかはわからない。すべての言葉の背後に霊が存在する。言霊と言ってもいい。善は善をよび悪は悪をよぶ。真実は真実をよび偽りは偽りをよぶ。言葉も同じで、善なる言葉は更なる善なる言葉をよび、悪なる言葉は悪なる言葉をよぶ。仮定の言葉が真実として立証されるのは、その言葉がどんな言葉を呼び起こし引き付けるか、或いはその言葉が先々にどう影響を及ぼすかという、仮定は過程の流れの中で立証される。み言葉に絶対信仰で対してはいるが、み言葉がどういう実をもたらすかは時間的流れの中で立証されることになる。しかし今の教会の発展や私達の歩みがこの世の規範に照らしてどうなのか、周囲の目がどうなのかという、社会貢献、生活貢献の度合いで量っても、そこは多分にみ言葉を地上のみ旨に降ろす私達の理解度と私達の人格に拠っている。それを棚に上げたままでみ言葉の是非や御父様云々をあげつらうことはできない。私達はみ言葉という創造理想を形にする天使長であり天使の立場だ。だから私達は私達の後孫、地球の未来に実を見るのであって、私達自身が実を直接享受するのではなく、後孫を通し、地球の未来を通して享受するようになっている。私達が物心両面の直接の恵みを求めるとするなら、他体自覚に目覚めようとし、犠牲となり為に生きる真理に沿うて生きたということに果たしてなるだろうか。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、創造理想への見返りなき投入だ。見返りなき投入でもってしか御父様についていくことはできない。

モーセの死体をめぐる戦いがあり、イエスの死体をめぐる戦いがあるなら、御父様をめぐる戦いも当然ある。

創世の当時、天界の戦いが起こったように、アダムエバの所有、人類の所有に於いても神様につく群れと天使長ルーシェルにつく群れとの戦いが起こったのであり、それは今の今まで戦い続けている。そうして御父様の聖和を前後して、神様と一体となられた御父様に従う群れと、一人の子女様を担ぎあげ従う群れとが戦っている。内輪事情の内紛劇と捉え、創造理想を形にするのとは全く関係が無いとして早々に引いて解決すべきだと思っているなら、それは摂理がわかってはいない。これは内輪もめではなくて、御父様の聖和を、宗教家文鮮明の死と捉えるのか、或いは神様と一体となられた御父様の聖和と認めるのかの御父様の死体をめぐる戦いだ。死体を見るのか、聖和され霊的に生きて働きかける御父様を見るのかの分かれ目だ。彼らは先ず御父様の願いに従わなかったのであり、御父様とひとつになられた御母様との関係も断ち、さらにアベルとして立てられた子女様にも楯ついて、側近や責任者達の横領や悪行をあげつらい教会財産を取り上げるのは正当性があると言い事実そう行動しているが、それを御父様が認めない以上泥棒と何ら変わりない。御父様も知らない事情があって、それを踏まえて一歩を踏み出すべきだと彼らは言うが、御父様は神様と一体となられた位置であって知らない事実もあっただろうとは言えない。問題があるとしても全てをご存知の上でそのままにして置かれたと言える。側近の横領であれ暴かれるべき私達の罪であれ、全てを知っておられたのであり、知った上でその位置を与えられ、その位置を任されておられたと言う事だ。それを否定するなら神様との一体圏とは何を指すのだろうか。神様の属性である唯一、絶対、永遠、不変の相続であり、全知全能の相続でもある。見えないこと、知り得ないこともあって、それ故に振り回される人間的部分が本当になかったのかと問われても、神様一体圏の位置ではそう思えるように振舞われたとしか言いようが無い。もし聖和された御父様が、生きている間知り得ない人間的な部分もあったと告白されるのであれば、人事措置や指示号令にも間違いが為された部分もあるということを認められることになる。そうなるともはや手を付けられないほど混乱するだろうし、今までの摂理も否定されてしまう。しかしグループ派は明らかにその否定する立場であり、それは神様と一体となられた御父様を否定する立場でもある。ようするに彼らは御父様を宗教家文鮮明という人間と見ており、御父様の死体を見て聖和されたと口にはしても、聖和され人間の位相を超えられた御父様という認識に立っていない。御父様の死体認識をめぐる攻防戦をそこに見るべきだ。天正宮に横たわる御尊体を拝見させなかったのはそれ故であり、内輪もめで片付けられる問題であるなら実の息子に最後に会わせるくらいのことは当然だろう。しかしメディアに暴露され非難を浴びるとしても、そこはどうしても譲れなかったはずだ。

2013年8月3日土曜日

個人から家庭へ(家庭の王)

霊界があり地上世界がある。そして霊界と地上世界を取り持つ心魂世界がある。人間は霊的存在であり肉体を持った地上存在でもある。そして霊人体と肉体を取り持つ心魂体がある。心魂の活動は知情意として現れる。知の部分である思考はみ言葉を土台としてこそ本然の思考に近付ける。情の部分である感情は心情を土台としてこそ本然の人間感情に近付ける。本然の思考と感情を通してこそ、意志としての衝動は為に生きる真の愛の具現化となる。ここまでは個人の救いと完成という宗教の部分であり、そこに留まる限りは他の宗教と同じ、個人の救いのステージだ。私達が特異なのは統一教会という宗教を卒業して(世界平和)家庭連合へと位相を移して活動する、即ち個人の救いと完成から家庭へと、救いと完成のステージを上げている。それは個の位置から見て敢えて言えば、個人があって家庭があるというパラダイムから、家庭があって個人があるというパラダイム変換だ。それは霊界の存在様相と合致していて、御父様が言われるように霊界の存在様相は夫婦一体となって存在しているのであり、更に家庭一体となって存在している。天国で男、女、一個一個で存在するのではなく夫婦一体一存在で天国生活を為す。私達が個人の救いと完成を卒業しない限り宗教圏を脱して御父様について行くことはできないのであって、八定式以降の宣布式やみ言葉の数々が理解を越えるのは、私が未だに宗教圏という個人の救いと完成のステージから飛躍できないが故のことだと言える。私は王権という言葉、家庭の王という言葉に対して、御父様が使われる意味での概念として受け取っているかどうかを改めて問う必要がある。さらに私達が理解しなければならない重要な言葉として入籍という案件、これは個人が入籍するのではなく家庭が入籍するわけだが、入籍することで天地父母の創造理想を根こそぎ受け継いで自分の家庭に定着させる。成約時代とは家庭定着時代だと話されるが、家庭が定着するのではなく、家庭に定着する。何が、、?家庭の王に仕え侍ることで創造理想が定着する。家庭王権時代宣布(陰暦2000,10.01)で話された重要な部分を太字にしたが、私達(私だけ?)が理解する家庭の概念と、ここで御父様が言及される家庭の概念が異なっているように思える。私達は個人から家庭へとジャンプしなけれならない。聖和された御父様だけれども、地上におられる時以上に御父様にしがみ付いて、仕え、侍らなければ、私達は霊的な翼を自ら挫いて御父様の高みには着いていけない。

2013年8月1日木曜日

今日の想い 600

PREGNANTという言葉がある。妊娠した、という意味で使う場合が多いが、含蓄のある、とか、意味深い、とか、想像性に富んだ、とかという意味にも使われる。それら全てに通じる概念にすると、PREGNANTとは新しいものを生じさせ含んでいる、と括られる。要するに無から有を生じさせる創造とも言える。信仰生活する中で聖霊体験し、今までになかった情的なものを受け取って新しい自分になることは、霊的なPREGNANTと言えるだろう。聖霊体験は霊的イエス様と聖霊との霊的交わりによって受け取るということで、それは受動的な段階に留まるが、霊的新生のみならず霊肉の新生、それを重生という言葉にしていいものかどうかは議論の余地があるものの、実体み言であられる御父様と聖霊実体であられる御母様によって重生はなされ、しかし重生が重生たる為には受動的な位置に留まっていて為されるのではなく、私が意志して御父様の骨髄の中に入っていく能動的な位置に立たなければ為されない。それはどこまでも御父様を慕い侍ることに尽きる。不断なる投入だ。不断なる投入はどこまでも堕落的な自己の否定がなければ投入はできない。慕い侍り続けることで私は新しい私を身篭る。PREGNANTだ。霊的堕落のままなら心魂のステージでどれほど目新しい感情、目新しい思考、目新しい衝動が起ころうとも神様とは関係が無い。本物の統一食口なら、そんなものは敢えて見向きもせずに、肉体的心魂的には地味で目立たず、見様によっては暗い影の部分ばかりを背負っているようでも、根源の霊的なところで霊的手術を施され、心情と言う新しい霊の部分を霊的に肉付けされて霊人体となしていく。心情で肉付けされた私の霊的な身体は御父様の血と汗と涙で創られ、御父様の霊的血統圏に属している。私はこの肉身の疼き、心魂の疼きよりは心情の疼き、霊的身体の疼きを覚える。御父様の流された汗が、涙が、血が、私の霊的身体の疼きとなって叫ぶ。そうであってこそ、私が真の父母の息子、娘であると断言できるのは、肉の実の御子女様以上だ。