2013年9月2日月曜日

今日の想い 613

正式にはまだ裁判に入ってはいないが、証人喚問は既に行われていて実質的には裁判状態にある。対TRUEWORLDとの戦いは丸3年の月日を経て佳境に入り、文字通り正念場を迎えようとしている。関係者それぞれに思いや考えはあるだろうけれども、たとえこの裁判をすること自体に頭を傾げる者がいたとしても否応なく戦いに臨まなければならない。病に冒されたら病と闘わなければならないし、家に乱暴者が侵入してきたら闘わなければならない。同じことだ。更に戦いは、私達に大義名分があると信じていても、守る位置ではなく攻勢の位置で臨まなければ、戦いには勝てない。勝利の女神は攻勢の位置でこそ微笑む。一般の信仰者的感覚だと闘うことを良しとしないという判断や気分があり、食口の多くもそうだと思う。しかし相反する方向性が生じ双方が自分が正しいと善の位置を主張するなら、それは闘わざるを得ない。悪の位置で教会財産を奪い、我が物顔で使っているのに、闘うことを辞退すれば自分は正しくない位置だったと認めることになる。既に私達は私という固体の中で心と体が闘っている状態だけれども、その認識の薄い者にかぎって、戦うという言葉に対して拒否反応を示し易い。上辺の平和主義者たちの何とも夢見がちな、自己査察が徹底されない、結局は媚を売ることになる彼らは、未来のことではない今の気持ち、更に人の感情ではない自分の感情が大切だという個人感情至上主義者といってもいいかも知れない。だから私達は上っ面の平和主義者、理想主義者とははっきりと線を引いて、真の平和を求め、真の理想を求めるが故に敢えて戦う。戦う以上は意識の多くをそこに奪われるし、緊張感で疲弊もし、具体的な戦闘費用だって多額だ。日常生活の領域にも、伝道や氏族復帰、献金にさえ影響を及ぼすだろう。いろんな理由を並べて戦うことから逃げようとする自分が少しでもいるなら、そこにこそ集中砲火を浴びせる意味でも戦う意志を強くすべきだ。対UCIの戦いも同じだ。精誠のこもった大切な献金が莫大な裁判費用に無駄に使われている?では何に使われたら精誠として生きるのか。捉え方が全く逆だ。それほどに大切な裁判だからこそ、それなりの精誠をそこに投入する。そう理解して当然だろうに、この裁判はみ旨とは関係の無い事柄だと勝手に決め付けてかかって、正義ぶって意見する。自分の認識が正しいとする傲慢さが正義の服を着ていい気になっているようで気持ち悪い。

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