2014年1月19日日曜日

今日の想い 692

私の店は今大きな節目を迎えている。長く働いてくれた古参従業員がどんどん辞めていく。厭で出ていくのではないとは思うのだが、それぞれの従業員にはそれぞれの尤もらしい言い訳がある。言い訳がどうあれ、店としては取り敢えずの営業歯車を失う事になる。それも複数の箇所に及んで失ってしまう。もはや部分的に直せる段階にはない。そうなると店全体の根幹から手を付け、建て直す必要がある。現実に癒着している思考感情部分では突然のこの成り行きにパニック状態だが、しかし表面的な心魂の動揺がある一方で、深みに於いては店が新生復活へ向けての避けられない産みの苦しみだという自覚がある。人生に於いても大きな転換点が必ず来るように、時の流れの中で店が店として前進する為には大きな転換点、節目がある。この店も摂理との関係で出発したビジネスであるから、摂理を牽引する霊界の霊的運勢圏や御父様が主管する教会というアベル圏とリンクしている。店の状態を見ながら教会の状況が見えるし、節理を牽引する霊界の状況が感じられる。店の中心に立つ私は店が店として発展するために、即ち店がレストラン教会として、この地域の神殿として立つために、正しく店の建設(神殿建設)という信仰を立て(信仰基台)、そして正しく、客がカイン圏として教会を、神殿を喜んで訪れることができるように受け入れ態勢(実体基台)を磐石にする必要がある。私が今まで学んだことは、摂理としてのビジネスという見地に立つことであり、信仰は信仰でありビジネスはビジネスだとは思わないし、ビジネスはこの世のビジネス論理に立っていればそれでいいとも思わない。私の中では、摂理としてのビジネスを尋ねて来たし、摂理としてのビジネスを構築しているとも思っている。私が店の中で訓読も祈祷もするし、名節の供え物もすると言えば他の店の兄弟達は怪訝な顔を覗かせるけれども、コストを下げることよりも、俗に言うビジネス戦略を立てることよりも重要なことだという認識がある。そして店の中で起こること全てが摂理的であって現実問題の背後の原因的な内的霊的事実が見えてくる。このレストラン摂理として、店が新生復活して後天開闢時代を生き延びるに相応しい器を用意する為に、今やっと産道の入り口をみつけただけであり、その入り口を見据えながら戦いはこれから始まる。私は中心の位置で死生決断を先ず供えない限り、身を削り骨を砕いてでも身を細くしなければ通り抜けられない産道を前にして怖気づくだろうし、店が勝手に立ち行くことなど在り得ない。

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