2014年1月23日木曜日

主体の位置で歩んでこそみ旨

自己否定と言う事を言われ続けてきた。そして自分に対しても自己否定を押し付けてきた。堕落的な自己を否定してみ旨の願いに供える私を差出して来た。いや、差し出そうと弛まぬ努力を続けてきたけれども、供儀として取っていただく内容があったかどうかは疑問だ。私などは自己否定という言葉から醸し出されるものに悲観的感情、地獄の行脚を思い浮かべるけれども、確かに四六時中自己否定の槌を頭から打ち続けられれば死ねと言われるのと変わらないだろう。実際、献身して、み旨だと言われて従事した事柄には嫌気と悲観的感情に押し潰されそうな日々が来る日も来る日も続いた。感謝という言葉を何百回、何千回唱えたとしても、嫌気と悲観的感情の領域は狭まらない。奴隷が奴隷であることの嫌気と悲観的感情を越えることができるとすれば、奴隷から解放される日があると確信しなければ超えられない。奴隷のままで奴隷の立場を居心地いいものとするならば、それは越えたのではなく奴隷として飼い馴らされたに過ぎない。み旨としてどんな活動をしてきたかを問うているのではない。やらされたみ旨なのか、主体的位置で自らが願い望んでやったみ旨なのかを問うている。信仰年数を十分に重ねても、何年経ってもやらされ感を引き摺りながら、それがみ旨だと思って、隊列の後ろの方で辛うじて着かず離れずの食口がいる。嫌気や悲観的感情が自分の中にあることを当然の事として諦めているなら、それはみ旨の奴隷でしかない。御父様の奴隷とは言わないけれども、み旨の奴隷ではある。やらされ感が私の中から拭えないならみ旨であってみ旨ではない。み旨は私が主体的位置に立って歩むことでみ旨として立つのであり、実はみ旨の奴隷という言い方はおかしい。確かにおかしいけれども、長い内的奴隷生活が習慣化してしまい、み旨の奴隷という言葉が当て嵌まってしまうことに、時だけを無駄に重ねたと言われかねない私達の問題がある。

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