2014年1月4日土曜日
今日の想い 685
霊界のことが本当にわかっていない。同じ霊界という言葉を使っていても、霊界の真実と彼らが認識する霊界が相容れないなら、頑なに霊界はないと信じている者達と変わらない。いや、霊界を信じていない者達よりも更に性質(たち)が悪い。善霊だと思っている存在が実は悪霊であり、それを知らないまま思い込みのままに突き進む。「御父様が霊界に逝かれて、地上では解かり得なかった真実を霊界では知っておられるはずだ。」と恥ずかしげもなく言ってのける彼らの霊界認識がどれほど稚拙なものか。なるほど彼らの言う良心は、知ることのできなかった真実を霊界に逝かれることで知っておられるはず、という解釈の上に立つことで辻褄が合うらしい。その解釈に立つなら、地上は嘘偽りがまかり通る世界であり、霊界を知りつくした御父様であっても見抜けない嘘偽りがあるが、彼らはそれを見抜いて、真実を知っているという位置で御父様の上に立っている。そういうことになる。甚だしい驕りがそこにあるが、驕りを驕りとも認識できない霊的感性の欠如を彼らの中に見てしまう。所詮彼らの信じる御父様は一宗教指導者に過ぎない限定的な御父様であって、神様と一体となられ天宙の真の父母であられるというのは、彼らにとってはただの冠詞にすぎないらしい。もちろん御父様も、肉体も感情も持たれた人間であり人間的な側面のある御父様であられたことはそうだが、しかしそれはあくまで人間的な、更に言うなら堕落人間的な私たちから見てそう思えると言うだけのことであって、私達は判断基準を私に置いて御父様の判断をどうだこうだと言える立場にはない。真実か嘘偽りかという善悪判断を取り敢えず当て嵌めようとするけれども、私達は先ず堕落人間という原初の偽りから出発した偽りの血統の存在であることを忘れてはならない。しかしどこまでも心情を立てられた御父様であり、偽りに向かう流れのものから真実に向かう意志と可能性を私達に見ようとされるのであり、その機会を与えられて指示命令を出されたし、待てるだけ待たれたはずだ。御父様に、できるのできないの、やるのやらないの、と問われた時、ハイと答えながらも曖昧なものを含みながら、しかし先ず偽りの存在である私達を信頼して下さったのであり、御父様のその信頼は他の者がとやかく言い、おかしいのどうのという筋合いのものではない。そこに割って入って、御父様は騙されているから偽りを見抜いた自分が御父様に代わって正すというのは、御父様の相手への信頼を無視して心情を逆撫でしている。彼らにとっては善悪は絶対的であるらしく、摂理摂理で相対的に変わっていくものだという認識もなければ、さらに、善悪判断を超えて心情を見ようとされる心情主義が御父様であり、霊界の事実として心情価値、真の愛の価値をして動いていることがわかっていない。彼らが言うように、御父様ですら騙されて正しく対処できなかった現実があると言うなら、彼らが悪霊から騙されていないという根拠は何処に置いて誰が証明するのだろうか。
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