2014年1月9日木曜日

今日の想い 687

昨年、平成の大遷宮という言葉が日本中に響き渡り、神道や神社に関心のない者達までも言葉に踊らされて参拝し、初めて聞く遷宮の響きに有難みを感じた。実は私もそんな一人で、この年になってやっと日本の民族魂を見ようとしている。み言葉を聞くことで誰も知らない天地の秘密を知り、摂理歴史を知っているという自惚れと驕りに酔って、実に傲慢な内的姿勢を食口皆に見たはずだ。勿論、神社は結婚式、お寺は葬式という習慣化された儀式以上のものをそこに見ようともしなかったし、形骸化された宗教をこれ見よがしに鼻で笑っていた。自分が日本人であるにもかかわらずだ。今にして思うと何とも非礼を働いたものだと呆れ返る。そういう意味では私も、日本民族と国の恩恵にしっかり与りながらも批判し否定すると言う、左傾集団と同じ穴のムジナの原理坊やに過ぎなかった。出雲大社は私の田舎からなら1時間もあれば行くことができ、日本で歩んでいた時には意識もしなかったのが、今は帰国する度に年寄りを連れて参拝している。田舎の山あいから日本海側の麓に下りれば分社もあって、私のいない年始の参拝はここで済ましているようだ。アメリカ人事になる前は名古屋で歩んでいて、当時の責任者の実家が鮮魚店を営んでいた三重の津に暫くいて手伝っていたこともあり、昨年の式年遷宮が行われた伊勢は目と鼻の先だったが、やはり意識もせず行きもしなかった。日本食口が、日本国の基と関係があるはずの神道や神社に対して、どの程度関心があるのか、日本で歩んでいた頃の自分と同じ程度なのかどうか、その辺もよくわからないが、意識するしないに関わらず血で繋がれて来た日本の民族魂の影響を受けているのは間違いない。日本の霊的影響圏から少し遠ざかる立場で歩んでみることで初めて、その血の流れている自分であることを実感せざるを得ない。それを無視して、どれほど原理用語で自分を立てようとしても、原理概念を完全には理解し得ない、民族魂に影響された自分が存在している事実は免れ得ない。勿論、それが悪い作用を及ぼす場合もあるけれども良い作用も及ぼし、善に寄与出来るものを持っている。自分という成り立ちをその奥の深みまで見通すことで霊の本質、精神の本質部分から再構築すべきだ。日本神話に限らず世界のいろんな神話は、中心的ヤハウェ神話との共通部分もあり異なる部分もあるけれども、その辺を問い探っていくと意外な知恵が隠されているはずだ。そしてその探っていく内的霊的力は御父様に繋がることで与えられているはずだ。み言葉を知り、御父様を迎えた統一食口であればこそこの世の人々には見通せない遷宮の見えない意味、神道で繋がってきた日本民族の見えない霊的真実が見通せて、その側面からも摂理に大きく寄与できると思っている。

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